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    軍艦島の最後の頑張りを支えた炭鉱技術者

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2024/07/17

軍艦島の最後の頑張りを支えた炭鉱技術者

軍艦島の最後の頑張りを支えた炭鉱技術者

軍艦島の最後の頑張りを支えた炭鉱技術者

軍艦島の最後の頑張りを支えた炭鉱技術者

こんにちは。 

軍艦島デジタルミュージアム トシです。

今回は石炭産業が斜陽産業に入り終焉を迎える、
その時に尽力された炭鉱技術者の
松浦さんが久しぶりにご来館されました。

当時の軍艦島の様子をタップリとインタビューさせて頂きました。
大変貴重なお話で、専門家ならではの視点で話してくださり
ワクワクと同時に、聞き取るのも一苦労でした。(笑)

tosi

まずは、松浦さんの経歴をご紹介させて頂きます。

松浦さんは12歳まで朝鮮で過ごされました。
松浦さんのお家は、朝鮮で陶器店を営まれたそうで(伊万里焼とか有田焼とか)
生活雑貨中心に「しまのとうきてん」というお店で、わりと繁盛していたそうです。
お客には朝鮮人も、日本人もいたそうです。

学校は半島人と日本人とは一緒ではなかったそうで、
表面的には仲良くやっていたけど陰では悪口も言ってる人もいたそうです。
松浦さんは成績もよく、ガキ大将だったのでいつも級長をやっていたそうです。

朝鮮の人の中には裕福な人もいて、日本人より裕福な方もいたそうです。
中の良かった朝鮮の人も、終戦と同時に手のひらを返したように辛辣になったそうです。


「松浦邦雄様の略歴」

昭和8年(1933年)旧朝鮮全羅南道木裏府幸町に生まれる。

昭和20年(1945年)敗戦で日本に引き上げ、母方の実家小倉に本籍を構える。

昭和33年 早稲田大学第一理工学部 鉱山学科卒業

同年4月 三菱鉱業入社 高島鉱勤務

昭和40年 高島から端島へ所内移動

昭和45年 三菱端島鉱 退職

昭和47年 九州電力玄海1号建設工所長

昭和59年 取締役 原子力部工事部長就任

平成5年 新菱製作所 社長就任

平成12年 新菱冷熱本社 非常勤監査役退任

tosi

次に、松浦さんが軍艦島で活躍された頃のことをご紹介します。

松浦さんが軍艦島で活躍されましたのは、昭和40年の9月三瀬地区採炭からです。
高島炭鉱からの転勤でした。高島炭鉱は軍艦島ほどの急傾斜ではなかったので、
機械化もある程度されていたそうです。そこで傾斜の緩やかな三瀬地区を採炭をすることになった時点で
松浦さんにお呼びがかかったそうです。

tosi
60年代ドラムカッター 

※昭和39年8月端島炭鉱のメイン竪坑最深部の自然発火による大火災事故が発生。
消化することを諦め、海水で水没させ蓋をして収集を図りました。
それで火災は消したものの深部採炭は不可能となった。

軍艦島の技術者達は1000m以上の深部を採炭することの
リスクを重く受け止めていて、昭和36年より-345mレベルを西南方向に掘り始めた。

途中大事故があったので急ピッチで掘り始め、昭和40年2月
三ッ瀬地区炭層に到達した。

とし

しかし三瀬地区はもともと炭量が少なく、もっても10年とわかっており、
長期操業対策として将来のかせぐ稼働区域を確保しなければならず、
端島沖区域の炭層(「たんたんこう」と呼ばれていた)
昭和43年(1968年)より調査、途中破砕帯などに接触し大量の出水。

結局、調査結果は着炭予想深度は−1000m以上の深さとわかり、開発を断念した。
組合側も、全炭鉱調査団を編成し調査にあたったが結果は同じで、組合側も納得せざるおえなかった。
三菱は三ッ瀬地区の残量を取り終えたら閉山すること決定した。

「松浦さんは坑内の空調に力を注がれ、温度は35度から20度後半に下がり、
湿度に至っては95%から55%に下がって軍艦島の坑内環境は劇的に改善したそうです。
(後にこの空調の技術を生かす為に他社に移られたきっかけとなる。)」

 
48年9月三瀬地区の採炭切羽が海面下ー120mに近づくとともに、
「安全に採炭し得る炭料が枯渇し、炭命が尽きたと判断」。

昭和49年1月15日 組合員全員の同意を得て端島炭坑(軍艦島)は閉山しました。



閉山最後の一年まで黒字閉山。加えて労使の相互理解も得られ

当時としては奇跡のような幕引きでした。



それでは、そろそろ

次のブログでお会いしましょう。

軍艦島デジタルミュージアム トシでした。

坑内間今日

こんにちは。 

軍艦島デジタルミュージアム トシです。

今回は石炭産業が斜陽産業に入り終焉を迎える、
その時に尽力された炭鉱技術者の
松浦さんが久しぶりにご来館されました。

当時の軍艦島の様子をタップリとインタビューさせて頂きました。
大変貴重なお話で、専門家ならではの視点で話してくださり
ワクワクと同時に、聞き取るのも一苦労でした。(笑)

tosi

まずは、松浦さんの経歴をご紹介させて頂きます。

松浦さんは12歳まで朝鮮で過ごされました。
松浦さんのお家は、朝鮮で陶器店を営まれたそうで(伊万里焼とか有田焼とか)
生活雑貨中心に「しまのとうきてん」というお店で、わりと繁盛していたそうです。
お客には朝鮮人も、日本人もいたそうです。

学校は半島人と日本人とは一緒ではなかったそうで、
表面的には仲良くやっていたけど陰では悪口も言ってる人もいたそうです。
松浦さんは成績もよく、ガキ大将だったのでいつも級長をやっていたそうです。

朝鮮の人の中には裕福な人もいて、日本人より裕福な方もいたそうです。
中の良かった朝鮮の人も、終戦と同時に手のひらを返したように辛辣になったそうです。


「松浦邦雄様の略歴」

昭和8年(1933年)旧朝鮮全羅南道木裏府幸町に生まれる。

昭和20年(1945年)敗戦で日本に引き上げ、母方の実家小倉に本籍を構える。

昭和33年 早稲田大学第一理工学部 鉱山学科卒業

同年4月 三菱鉱業入社 高島鉱勤務

昭和40年 高島から端島へ所内移動

昭和45年 三菱端島鉱 退職

昭和47年 九州電力玄海1号建設工所長

昭和59年 取締役 原子力部工事部長就任

平成5年 新菱製作所 社長就任

平成12年 新菱冷熱本社 非常勤監査役退任

tosi

次に、松浦さんが軍艦島で活躍された頃のことをご紹介します。

松浦さんが軍艦島で活躍されましたのは、昭和40年の9月三瀬地区採炭からです。
高島炭鉱からの転勤でした。高島炭鉱は軍艦島ほどの急傾斜ではなかったので、
機械化もある程度されていたそうです。そこで傾斜の緩やかな三瀬地区を採炭をすることになった時点で
松浦さんにお呼びがかかったそうです。

tosi
60年代ドラムカッター 

※昭和39年8月端島炭鉱のメイン竪坑最深部の自然発火による大火災事故が発生。
消化することを諦め、海水で水没させ蓋をして収集を図りました。
それで火災は消したものの深部採炭は不可能となった。

軍艦島の技術者達は1000m以上の深部を採炭することの
リスクを重く受け止めていて、昭和36年より-345mレベルを西南方向に掘り始めた。

途中大事故があったので急ピッチで掘り始め、昭和40年2月
三ッ瀬地区炭層に到達した。

とし

しかし三瀬地区はもともと炭量が少なく、もっても10年とわかっており、
長期操業対策として将来のかせぐ稼働区域を確保しなければならず、
端島沖区域の炭層(「たんたんこう」と呼ばれていた)
昭和43年(1968年)より調査、途中破砕帯などに接触し大量の出水。

結局、調査結果は着炭予想深度は−1000m以上の深さとわかり、開発を断念した。
組合側も、全炭鉱調査団を編成し調査にあたったが結果は同じで、組合側も納得せざるおえなかった。
三菱は三ッ瀬地区の残量を取り終えたら閉山すること決定した。

「松浦さんは坑内の空調に力を注がれ、温度は35度から20度後半に下がり、
湿度に至っては95%から55%に下がって軍艦島の坑内環境は劇的に改善したそうです。
(後にこの空調の技術を生かす為に他社に移られたきっかけとなる。)」

 
48年9月三瀬地区の採炭切羽が海面下ー120mに近づくとともに、
「安全に採炭し得る炭料が枯渇し、炭命が尽きたと判断」。

昭和49年1月15日 組合員全員の同意を得て端島炭坑(軍艦島)は閉山しました。



閉山最後の一年まで黒字閉山。加えて労使の相互理解も得られ

当時としては奇跡のような幕引きでした。



それでは、そろそろ

次のブログでお会いしましょう。

軍艦島デジタルミュージアム トシでした。

こんにちは。 

軍艦島デジタルミュージアム トシです。

今回は石炭産業が斜陽産業に入り終焉を迎える、
その時に尽力された炭鉱技術者の
松浦さんが久しぶりにご来館されました。

当時の軍艦島の様子をタップリとインタビューさせて頂きました。
大変貴重なお話で、専門家ならではの視点で話してくださり
ワクワクと同時に、聞き取るのも一苦労でした。(笑)

tosi

まずは、松浦さんの経歴をご紹介させて頂きます。

松浦さんは12歳まで朝鮮で過ごされました。
松浦さんのお家は、朝鮮で陶器店を営まれたそうで(伊万里焼とか有田焼とか)
生活雑貨中心に「しまのとうきてん」というお店で、わりと繁盛していたそうです。
お客には朝鮮人も、日本人もいたそうです。

学校は半島人と日本人とは一緒ではなかったそうで、
表面的には仲良くやっていたけど陰では悪口も言ってる人もいたそうです。
松浦さんは成績もよく、ガキ大将だったのでいつも級長をやっていたそうです。

朝鮮の人の中には裕福な人もいて、日本人より裕福な方もいたそうです。
中の良かった朝鮮の人も、終戦と同時に手のひらを返したように辛辣になったそうです。


「松浦邦雄様の略歴」

昭和8年(1933年)旧朝鮮全羅南道木裏府幸町に生まれる。

昭和20年(1945年)敗戦で日本に引き上げ、母方の実家小倉に本籍を構える。

昭和33年 早稲田大学第一理工学部 鉱山学科卒業

同年4月 三菱鉱業入社 高島鉱勤務

昭和40年 高島から端島へ所内移動

昭和45年 三菱端島鉱 退職

昭和47年 九州電力玄海1号建設工所長

昭和59年 取締役 原子力部工事部長就任

平成5年 新菱製作所 社長就任

平成12年 新菱冷熱本社 非常勤監査役退任

tosi

次に、松浦さんが軍艦島で活躍された頃のことをご紹介します。

松浦さんが軍艦島で活躍されましたのは、昭和40年の9月三瀬地区採炭からです。
高島炭鉱からの転勤でした。高島炭鉱は軍艦島ほどの急傾斜ではなかったので、
機械化もある程度されていたそうです。そこで傾斜の緩やかな三瀬地区を採炭をすることになった時点で
松浦さんにお呼びがかかったそうです。

tosi
60年代ドラムカッター 

※昭和39年8月端島炭鉱のメイン竪坑最深部の自然発火による大火災事故が発生。
消化することを諦め、海水で水没させ蓋をして収集を図りました。
それで火災は消したものの深部採炭は不可能となった。

軍艦島の技術者達は1000m以上の深部を採炭することの
リスクを重く受け止めていて、昭和36年より-345mレベルを西南方向に掘り始めた。

途中大事故があったので急ピッチで掘り始め、昭和40年2月
三ッ瀬地区炭層に到達した。

とし

しかし三瀬地区はもともと炭量が少なく、もっても10年とわかっており、
長期操業対策として将来のかせぐ稼働区域を確保しなければならず、
端島沖区域の炭層(「たんたんこう」と呼ばれていた)
昭和43年(1968年)より調査、途中破砕帯などに接触し大量の出水。

結局、調査結果は着炭予想深度は−1000m以上の深さとわかり、開発を断念した。
組合側も、全炭鉱調査団を編成し調査にあたったが結果は同じで、組合側も納得せざるおえなかった。
三菱は三ッ瀬地区の残量を取り終えたら閉山すること決定した。

「松浦さんは坑内の空調に力を注がれ、温度は35度から20度後半に下がり、
湿度に至っては95%から55%に下がって軍艦島の坑内環境は劇的に改善したそうです。
(後にこの空調の技術を生かす為に他社に移られたきっかけとなる。)」

 
48年9月三瀬地区の採炭切羽が海面下ー120mに近づくとともに、
「安全に採炭し得る炭料が枯渇し、炭命が尽きたと判断」。

昭和49年1月15日 組合員全員の同意を得て端島炭坑(軍艦島)は閉山しました。



閉山最後の一年まで黒字閉山。加えて労使の相互理解も得られ

当時としては奇跡のような幕引きでした。



それでは、そろそろ

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