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2025/01/26
唐津炭田と北松炭田の視察勉強会
唐津炭田と北松炭田の視察勉強会
唐津炭田と北松炭田の視察勉強会
唐津炭田と北松炭田の視察勉強会
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムのトシです。
皆様 お元気でお過ごしでしょうか。
今回は私 昨年11月にありました。
全国炭鉱博物館研究会 「全炭博研(ぜんたんはっけん)」の視察勉強会に参加した時のお話をします。
今回は佐賀県の唐津炭田 長崎県の北松炭田を4日間に渡り調査、視察、勉強会に行ってまいりました。
全炭博研のメンバーは各分野の専門家たち(大学の先生や各博物館の学芸員。写真家)とても楽しい集まりです。



旧高取邸
全炭博研の集合場所はJR唐津駅でしたので、集合した時点で早速唐津駅の近くの
炭鉱王の高取伊好(たかとりこれよし)の自宅高取邸へと向かいました。
旧高取邸は伊好の自宅兼迎賓館で平成10年12月に国の重要文化財の指定を受けました。
内部は撮影禁止となっております。

芳乃谷炭鉱第三斜行入口跡

芳の谷炭鉱
江戸時代より小規模には採炭されておりましたが、幕末には江戸幕府直轄となり、
明治時代には海軍の直轄炭鉱となりました。

古賀山炭鉱(三菱)
43年 東多久鉱区取得
大正 3年 多久鉱業所東多久炭鉱(東多久)買収
大正 9年 古賀山炭鉱(旧東多久炭鉱)竪坑開削
大正12年 古賀山炭鉱(旧東多久炭鉱)閉山
昭和18年 古賀山鉱業所 開坑着手
昭和20年 古賀山鉱業所 戦争激化より工事中止 のち再開
昭和42年 古賀山炭鉱 豪雨により斜坑水没
昭和43年 三菱古賀山炭鉱 閉山
唐津炭田
唐津炭田は古くから石炭が採掘されたことは知られており、享保年間には既に個人規模で石炭採掘が行われ、薪の代わりなどに用いられていたが、幕末になると困窮を極めた諸藩が経済政策のために藩営の炭鉱を開発するようになり、瀬戸内などの製塩向けに需要を伸ばし、市場経済に乗せられるようになった。その中に、幕府が直営する炭鉱もあり御用山と呼ばれた。この御用山は明治に入ると、海軍が管轄する海軍直営鉱山になり、艦船の燃料として用いられた。しかし、浅い炭層を掘り尽くしたことなどで多くが民間に払い下げられ、福岡、長崎らの多くの富豪や財閥系企業が買い取った。その中でも炭鉱王とも呼ばれた高取伊好は政治家であった竹内綱と手を組み、一帯の炭鉱開発に取り組んだ。だが、既に老朽化した施設での炭鉱運営は決して楽な道のりではなく、せっかく開発した良質の炭層を三菱などの大財閥に売却せざるを得なくなった経緯などがある。しかし、1909年に杵島層で良質な炭層を見込んで開発した杵島炭鉱運営が軌道に乗り、年産60万トンにまで及ぶ国内有数の炭鉱に成長した。特に、杵島産石炭は他の唐唐津炭田1津炭田と一線を画し、「キシマコール」といわれ、艦船用燃料炭の標準規格とまで評価され、外国向け輸出品にもなった。その際、1900年には沿線の石炭を運ぶための鉄道、唐津興業鉄道が開通した。それに伴い、唐津港はますます貿易拠点、工業都市としての重要性を増し、唐津市は大いに発展した。
だが、後に艦船の技術進歩によって唐津産石炭は燃料に適さなくなり、需要が衰えた。さらに、埋蔵量が豊富で良質の石炭を産出した三池炭田、開発が拡大した筑豊炭田の影響を大きく受けた。八幡に官営八幡製鐵所ができ、門司港が国際貿易港として発展したため、唐津の優位性が落ちたためである。それにしたがい唐津は低迷を余儀なくされたが、唐津に拠点を置いた三菱は一帯の鉱山を買い占め、傘下に収めた。昭和に入ってからは徹底した合理化を行い、相次ぐ好不況や恐慌などの厳しい時代を生き抜いたがその際に、劣悪な環境での囚人労働や強制収容者による労働なども起こっている。
戦後は大規模な炭鉱を中心に収益性を高めた採炭を行い、1958年(昭和33年)では一人あたりの採炭量は全国トップにまで躍り出るなど健闘し、唐津港に新たな石炭化学プラントの建設などが持ち掛かった矢先、後のエネルギー革命によって安価な輸入石炭の国内流入によって急速に衰え、1972年で大小述べ50以上を数えた全ての炭鉱が閉山した。
芳ノ谷 層【よしのたにそう】
この地層は 薄い石炭層を挟む、砂岩 泥岩層 から成り立っています。今から5000万年前
新世代三紀ぐらいからの埋層地層と考えられています。
「唐津炭田の主な炭鉱」
杵島炭鉱(住友系杵島) …大町町
明治佐賀(明治鉱業) …多久市
三菱古賀山(三菱鉱業) …多久市
特にこの3つは戦後も年産50万トン以上を産出する主要炭鉱であった。
三菱相知(三菱鉱業) …相知町(現・唐津市) 芳谷炭鉱(三菱鉱業) …唐津市
明治立山(明治鉱業) …多久市 小城炭鉱 (山口鉱山) …多久市
岩屋炭鉱 (高倉鉱業) …厳木町(現・唐津市)日満新屋敷(日満鉱業)…厳木町
住友北波多 (住友石炭鉱業)…北波多村(現・唐津市)
岸山炭鉱 (新唐津炭鉱) …北波多村 (Wikipedia参照)

松浦鉄道 世知原炭鉱の石炭は佐々駅で松浦鉄道に合流しました。

佐世保炭田(北松炭田)
長崎県佐世保市と北松浦郡に分布する炭鉱地帯。北松炭田(ほくしょうたんでん)ともいう。狸掘(たぬきぼり)による採炭は江戸時代から行われ、1858年(安政5)から開坑が増え、明治・大正時代には急激に増加した。最盛期の1958年(昭和33)には、稼行炭鉱数98、年間出炭量236万トン、従業員1万8156人を数えた。炭質は強粘結を主としたが、炭層がきわめて薄く、中小の零細な経営が94鉱で、大手筋炭鉱は日本製鉄系の鹿町(しかまち)鉱・神田(かんだ)鉱、住友系の潜龍(せんりゅう)鉱、麻生(あそう)系の岳下(たけした)鉱の4鉱にすぎなかった。1960年以後政府のエネルギー政策は、大小様々の炭鉱のスクラップ アンド ビルドが進められた。 (Wikipedia参照)
北松炭鉱世知原資料館
北松炭田の特徴は佐世保地区南北に流れる佐々川を境に西北側が炭質が炭質の良い燃料炭で、南東側が質の落ちる一般炭となっており、
佐々川自体が断層となっており影響を受けたものと考えられる。
江迎炭.潜龍炭 世知原炭 などが優良の原料炭となっている。
※ 近くの炭鉱跡に水を抜いて中に入れるようになりました。

地下水は佐々側に流れ込みます。

奥の方は真っ暗なとこも多くて怖いですね。


江迎炭鉱の近くの線路、昔は石炭が運ばれた線路ですね。
今回の全炭博研の旅、それぞれの専門家の先生に接し沢山の事を学びま
皆さん本当にありがとうございました。
それでは
そろそろ次のブログでお会いしましょう
軍艦島デジタルミュージアム 歴史担当トシでした。
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムのトシです。
皆様 お元気でお過ごしでしょうか。
今回は私 昨年11月にありました。
全国炭鉱博物館研究会 「全炭博研(ぜんたんはっけん)」の視察勉強会に参加した時のお話をします。
今回は佐賀県の唐津炭田 長崎県の北松炭田を4日間に渡り調査、視察、勉強会に行ってまいりました。
全炭博研のメンバーは各分野の専門家たち(大学の先生や各博物館の学芸員。写真家)とても楽しい集まりです。



旧高取邸
全炭博研の集合場所はJR唐津駅でしたので、集合した時点で早速唐津駅の近くの
炭鉱王の高取伊好(たかとりこれよし)の自宅高取邸へと向かいました。
旧高取邸は伊好の自宅兼迎賓館で平成10年12月に国の重要文化財の指定を受けました。
内部は撮影禁止となっております。

芳乃谷炭鉱第三斜行入口跡

芳の谷炭鉱
江戸時代より小規模には採炭されておりましたが、幕末には江戸幕府直轄となり、
明治時代には海軍の直轄炭鉱となりました。

古賀山炭鉱(三菱)
43年 東多久鉱区取得
大正 3年 多久鉱業所東多久炭鉱(東多久)買収
大正 9年 古賀山炭鉱(旧東多久炭鉱)竪坑開削
大正12年 古賀山炭鉱(旧東多久炭鉱)閉山
昭和18年 古賀山鉱業所 開坑着手
昭和20年 古賀山鉱業所 戦争激化より工事中止 のち再開
昭和42年 古賀山炭鉱 豪雨により斜坑水没
昭和43年 三菱古賀山炭鉱 閉山
唐津炭田
唐津炭田は古くから石炭が採掘されたことは知られており、享保年間には既に個人規模で石炭採掘が行われ、薪の代わりなどに用いられていたが、幕末になると困窮を極めた諸藩が経済政策のために藩営の炭鉱を開発するようになり、瀬戸内などの製塩向けに需要を伸ばし、市場経済に乗せられるようになった。その中に、幕府が直営する炭鉱もあり御用山と呼ばれた。この御用山は明治に入ると、海軍が管轄する海軍直営鉱山になり、艦船の燃料として用いられた。しかし、浅い炭層を掘り尽くしたことなどで多くが民間に払い下げられ、福岡、長崎らの多くの富豪や財閥系企業が買い取った。その中でも炭鉱王とも呼ばれた高取伊好は政治家であった竹内綱と手を組み、一帯の炭鉱開発に取り組んだ。だが、既に老朽化した施設での炭鉱運営は決して楽な道のりではなく、せっかく開発した良質の炭層を三菱などの大財閥に売却せざるを得なくなった経緯などがある。しかし、1909年に杵島層で良質な炭層を見込んで開発した杵島炭鉱運営が軌道に乗り、年産60万トンにまで及ぶ国内有数の炭鉱に成長した。特に、杵島産石炭は他の唐唐津炭田1津炭田と一線を画し、「キシマコール」といわれ、艦船用燃料炭の標準規格とまで評価され、外国向け輸出品にもなった。その際、1900年には沿線の石炭を運ぶための鉄道、唐津興業鉄道が開通した。それに伴い、唐津港はますます貿易拠点、工業都市としての重要性を増し、唐津市は大いに発展した。
だが、後に艦船の技術進歩によって唐津産石炭は燃料に適さなくなり、需要が衰えた。さらに、埋蔵量が豊富で良質の石炭を産出した三池炭田、開発が拡大した筑豊炭田の影響を大きく受けた。八幡に官営八幡製鐵所ができ、門司港が国際貿易港として発展したため、唐津の優位性が落ちたためである。それにしたがい唐津は低迷を余儀なくされたが、唐津に拠点を置いた三菱は一帯の鉱山を買い占め、傘下に収めた。昭和に入ってからは徹底した合理化を行い、相次ぐ好不況や恐慌などの厳しい時代を生き抜いたがその際に、劣悪な環境での囚人労働や強制収容者による労働なども起こっている。
戦後は大規模な炭鉱を中心に収益性を高めた採炭を行い、1958年(昭和33年)では一人あたりの採炭量は全国トップにまで躍り出るなど健闘し、唐津港に新たな石炭化学プラントの建設などが持ち掛かった矢先、後のエネルギー革命によって安価な輸入石炭の国内流入によって急速に衰え、1972年で大小述べ50以上を数えた全ての炭鉱が閉山した。
芳ノ谷 層【よしのたにそう】
この地層は 薄い石炭層を挟む、砂岩 泥岩層 から成り立っています。今から5000万年前
新世代三紀ぐらいからの埋層地層と考えられています。
「唐津炭田の主な炭鉱」
杵島炭鉱(住友系杵島) …大町町
明治佐賀(明治鉱業) …多久市
三菱古賀山(三菱鉱業) …多久市
特にこの3つは戦後も年産50万トン以上を産出する主要炭鉱であった。
三菱相知(三菱鉱業) …相知町(現・唐津市) 芳谷炭鉱(三菱鉱業) …唐津市
明治立山(明治鉱業) …多久市 小城炭鉱 (山口鉱山) …多久市
岩屋炭鉱 (高倉鉱業) …厳木町(現・唐津市)日満新屋敷(日満鉱業)…厳木町
住友北波多 (住友石炭鉱業)…北波多村(現・唐津市)
岸山炭鉱 (新唐津炭鉱) …北波多村 (Wikipedia参照)

松浦鉄道 世知原炭鉱の石炭は佐々駅で松浦鉄道に合流しました。

佐世保炭田(北松炭田)
長崎県佐世保市と北松浦郡に分布する炭鉱地帯。北松炭田(ほくしょうたんでん)ともいう。狸掘(たぬきぼり)による採炭は江戸時代から行われ、1858年(安政5)から開坑が増え、明治・大正時代には急激に増加した。最盛期の1958年(昭和33)には、稼行炭鉱数98、年間出炭量236万トン、従業員1万8156人を数えた。炭質は強粘結を主としたが、炭層がきわめて薄く、中小の零細な経営が94鉱で、大手筋炭鉱は日本製鉄系の鹿町(しかまち)鉱・神田(かんだ)鉱、住友系の潜龍(せんりゅう)鉱、麻生(あそう)系の岳下(たけした)鉱の4鉱にすぎなかった。1960年以後政府のエネルギー政策は、大小様々の炭鉱のスクラップ アンド ビルドが進められた。 (Wikipedia参照)
北松炭鉱世知原資料館
北松炭田の特徴は佐世保地区南北に流れる佐々川を境に西北側が炭質が炭質の良い燃料炭で、南東側が質の落ちる一般炭となっており、
佐々川自体が断層となっており影響を受けたものと考えられる。
江迎炭.潜龍炭 世知原炭 などが優良の原料炭となっている。
※ 近くの炭鉱跡に水を抜いて中に入れるようになりました。

地下水は佐々側に流れ込みます。

奥の方は真っ暗なとこも多くて怖いですね。


江迎炭鉱の近くの線路、昔は石炭が運ばれた線路ですね。
今回の全炭博研の旅、それぞれの専門家の先生に接し沢山の事を学びま
皆さん本当にありがとうございました。
それでは
そろそろ次のブログでお会いしましょう
軍艦島デジタルミュージアム 歴史担当トシでした。
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムのトシです。
皆様 お元気でお過ごしでしょうか。
今回は私 昨年11月にありました。
全国炭鉱博物館研究会 「全炭博研(ぜんたんはっけん)」の視察勉強会に参加した時のお話をします。
今回は佐賀県の唐津炭田 長崎県の北松炭田を4日間に渡り調査、視察、勉強会に行ってまいりました。
全炭博研のメンバーは各分野の専門家たち(大学の先生や各博物館の学芸員。写真家)とても楽しい集まりです。



旧高取邸
全炭博研の集合場所はJR唐津駅でしたので、集合した時点で早速唐津駅の近くの
炭鉱王の高取伊好(たかとりこれよし)の自宅高取邸へと向かいました。
旧高取邸は伊好の自宅兼迎賓館で平成10年12月に国の重要文化財の指定を受けました。
内部は撮影禁止となっております。

芳乃谷炭鉱第三斜行入口跡

芳の谷炭鉱
江戸時代より小規模には採炭されておりましたが、幕末には江戸幕府直轄となり、
明治時代には海軍の直轄炭鉱となりました。

古賀山炭鉱(三菱)
43年 東多久鉱区取得
大正 3年 多久鉱業所東多久炭鉱(東多久)買収
大正 9年 古賀山炭鉱(旧東多久炭鉱)竪坑開削
大正12年 古賀山炭鉱(旧東多久炭鉱)閉山
昭和18年 古賀山鉱業所 開坑着手
昭和20年 古賀山鉱業所 戦争激化より工事中止 のち再開
昭和42年 古賀山炭鉱 豪雨により斜坑水没
昭和43年 三菱古賀山炭鉱 閉山
唐津炭田
唐津炭田は古くから石炭が採掘されたことは知られており、享保年間には既に個人規模で石炭採掘が行われ、薪の代わりなどに用いられていたが、幕末になると困窮を極めた諸藩が経済政策のために藩営の炭鉱を開発するようになり、瀬戸内などの製塩向けに需要を伸ばし、市場経済に乗せられるようになった。その中に、幕府が直営する炭鉱もあり御用山と呼ばれた。この御用山は明治に入ると、海軍が管轄する海軍直営鉱山になり、艦船の燃料として用いられた。しかし、浅い炭層を掘り尽くしたことなどで多くが民間に払い下げられ、福岡、長崎らの多くの富豪や財閥系企業が買い取った。その中でも炭鉱王とも呼ばれた高取伊好は政治家であった竹内綱と手を組み、一帯の炭鉱開発に取り組んだ。だが、既に老朽化した施設での炭鉱運営は決して楽な道のりではなく、せっかく開発した良質の炭層を三菱などの大財閥に売却せざるを得なくなった経緯などがある。しかし、1909年に杵島層で良質な炭層を見込んで開発した杵島炭鉱運営が軌道に乗り、年産60万トンにまで及ぶ国内有数の炭鉱に成長した。特に、杵島産石炭は他の唐唐津炭田1津炭田と一線を画し、「キシマコール」といわれ、艦船用燃料炭の標準規格とまで評価され、外国向け輸出品にもなった。その際、1900年には沿線の石炭を運ぶための鉄道、唐津興業鉄道が開通した。それに伴い、唐津港はますます貿易拠点、工業都市としての重要性を増し、唐津市は大いに発展した。
だが、後に艦船の技術進歩によって唐津産石炭は燃料に適さなくなり、需要が衰えた。さらに、埋蔵量が豊富で良質の石炭を産出した三池炭田、開発が拡大した筑豊炭田の影響を大きく受けた。八幡に官営八幡製鐵所ができ、門司港が国際貿易港として発展したため、唐津の優位性が落ちたためである。それにしたがい唐津は低迷を余儀なくされたが、唐津に拠点を置いた三菱は一帯の鉱山を買い占め、傘下に収めた。昭和に入ってからは徹底した合理化を行い、相次ぐ好不況や恐慌などの厳しい時代を生き抜いたがその際に、劣悪な環境での囚人労働や強制収容者による労働なども起こっている。
戦後は大規模な炭鉱を中心に収益性を高めた採炭を行い、1958年(昭和33年)では一人あたりの採炭量は全国トップにまで躍り出るなど健闘し、唐津港に新たな石炭化学プラントの建設などが持ち掛かった矢先、後のエネルギー革命によって安価な輸入石炭の国内流入によって急速に衰え、1972年で大小述べ50以上を数えた全ての炭鉱が閉山した。
芳ノ谷 層【よしのたにそう】
この地層は 薄い石炭層を挟む、砂岩 泥岩層 から成り立っています。今から5000万年前
新世代三紀ぐらいからの埋層地層と考えられています。
「唐津炭田の主な炭鉱」
杵島炭鉱(住友系杵島) …大町町
明治佐賀(明治鉱業) …多久市
三菱古賀山(三菱鉱業) …多久市
特にこの3つは戦後も年産50万トン以上を産出する主要炭鉱であった。
三菱相知(三菱鉱業) …相知町(現・唐津市) 芳谷炭鉱(三菱鉱業) …唐津市
明治立山(明治鉱業) …多久市 小城炭鉱 (山口鉱山) …多久市
岩屋炭鉱 (高倉鉱業) …厳木町(現・唐津市)日満新屋敷(日満鉱業)…厳木町
住友北波多 (住友石炭鉱業)…北波多村(現・唐津市)
岸山炭鉱 (新唐津炭鉱) …北波多村 (Wikipedia参照)

松浦鉄道 世知原炭鉱の石炭は佐々駅で松浦鉄道に合流しました。

佐世保炭田(北松炭田)
長崎県佐世保市と北松浦郡に分布する炭鉱地帯。北松炭田(ほくしょうたんでん)ともいう。狸掘(たぬきぼり)による採炭は江戸時代から行われ、1858年(安政5)から開坑が増え、明治・大正時代には急激に増加した。最盛期の1958年(昭和33)には、稼行炭鉱数98、年間出炭量236万トン、従業員1万8156人を数えた。炭質は強粘結を主としたが、炭層がきわめて薄く、中小の零細な経営が94鉱で、大手筋炭鉱は日本製鉄系の鹿町(しかまち)鉱・神田(かんだ)鉱、住友系の潜龍(せんりゅう)鉱、麻生(あそう)系の岳下(たけした)鉱の4鉱にすぎなかった。1960年以後政府のエネルギー政策は、大小様々の炭鉱のスクラップ アンド ビルドが進められた。 (Wikipedia参照)
北松炭鉱世知原資料館
北松炭田の特徴は佐世保地区南北に流れる佐々川を境に西北側が炭質が炭質の良い燃料炭で、南東側が質の落ちる一般炭となっており、
佐々川自体が断層となっており影響を受けたものと考えられる。
江迎炭.潜龍炭 世知原炭 などが優良の原料炭となっている。
※ 近くの炭鉱跡に水を抜いて中に入れるようになりました。

地下水は佐々側に流れ込みます。

奥の方は真っ暗なとこも多くて怖いですね。


江迎炭鉱の近くの線路、昔は石炭が運ばれた線路ですね。
今回の全炭博研の旅、それぞれの専門家の先生に接し沢山の事を学びま
皆さん本当にありがとうございました。
それでは
そろそろ次のブログでお会いしましょう
軍艦島デジタルミュージアム 歴史担当トシでした。
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムのトシです。
皆様 お元気でお過ごしでしょうか。
今回は私 昨年11月にありました。
全国炭鉱博物館研究会 「全炭博研(ぜんたんはっけん)」の視察勉強会に参加した時のお話をします。
今回は佐賀県の唐津炭田 長崎県の北松炭田を4日間に渡り調査、視察、勉強会に行ってまいりました。
全炭博研のメンバーは各分野の専門家たち(大学の先生や各博物館の学芸員。写真家)とても楽しい集まりです。



旧高取邸
全炭博研の集合場所はJR唐津駅でしたので、集合した時点で早速唐津駅の近くの
炭鉱王の高取伊好(たかとりこれよし)の自宅高取邸へと向かいました。
旧高取邸は伊好の自宅兼迎賓館で平成10年12月に国の重要文化財の指定を受けました。
内部は撮影禁止となっております。

芳乃谷炭鉱第三斜行入口跡

芳の谷炭鉱
江戸時代より小規模には採炭されておりましたが、幕末には江戸幕府直轄となり、
明治時代には海軍の直轄炭鉱となりました。

古賀山炭鉱(三菱)
43年 東多久鉱区取得
大正 3年 多久鉱業所東多久炭鉱(東多久)買収
大正 9年 古賀山炭鉱(旧東多久炭鉱)竪坑開削
大正12年 古賀山炭鉱(旧東多久炭鉱)閉山
昭和18年 古賀山鉱業所 開坑着手
昭和20年 古賀山鉱業所 戦争激化より工事中止 のち再開
昭和42年 古賀山炭鉱 豪雨により斜坑水没
昭和43年 三菱古賀山炭鉱 閉山
唐津炭田
唐津炭田は古くから石炭が採掘されたことは知られており、享保年間には既に個人規模で石炭採掘が行われ、薪の代わりなどに用いられていたが、幕末になると困窮を極めた諸藩が経済政策のために藩営の炭鉱を開発するようになり、瀬戸内などの製塩向けに需要を伸ばし、市場経済に乗せられるようになった。その中に、幕府が直営する炭鉱もあり御用山と呼ばれた。この御用山は明治に入ると、海軍が管轄する海軍直営鉱山になり、艦船の燃料として用いられた。しかし、浅い炭層を掘り尽くしたことなどで多くが民間に払い下げられ、福岡、長崎らの多くの富豪や財閥系企業が買い取った。その中でも炭鉱王とも呼ばれた高取伊好は政治家であった竹内綱と手を組み、一帯の炭鉱開発に取り組んだ。だが、既に老朽化した施設での炭鉱運営は決して楽な道のりではなく、せっかく開発した良質の炭層を三菱などの大財閥に売却せざるを得なくなった経緯などがある。しかし、1909年に杵島層で良質な炭層を見込んで開発した杵島炭鉱運営が軌道に乗り、年産60万トンにまで及ぶ国内有数の炭鉱に成長した。特に、杵島産石炭は他の唐唐津炭田1津炭田と一線を画し、「キシマコール」といわれ、艦船用燃料炭の標準規格とまで評価され、外国向け輸出品にもなった。その際、1900年には沿線の石炭を運ぶための鉄道、唐津興業鉄道が開通した。それに伴い、唐津港はますます貿易拠点、工業都市としての重要性を増し、唐津市は大いに発展した。
だが、後に艦船の技術進歩によって唐津産石炭は燃料に適さなくなり、需要が衰えた。さらに、埋蔵量が豊富で良質の石炭を産出した三池炭田、開発が拡大した筑豊炭田の影響を大きく受けた。八幡に官営八幡製鐵所ができ、門司港が国際貿易港として発展したため、唐津の優位性が落ちたためである。それにしたがい唐津は低迷を余儀なくされたが、唐津に拠点を置いた三菱は一帯の鉱山を買い占め、傘下に収めた。昭和に入ってからは徹底した合理化を行い、相次ぐ好不況や恐慌などの厳しい時代を生き抜いたがその際に、劣悪な環境での囚人労働や強制収容者による労働なども起こっている。
戦後は大規模な炭鉱を中心に収益性を高めた採炭を行い、1958年(昭和33年)では一人あたりの採炭量は全国トップにまで躍り出るなど健闘し、唐津港に新たな石炭化学プラントの建設などが持ち掛かった矢先、後のエネルギー革命によって安価な輸入石炭の国内流入によって急速に衰え、1972年で大小述べ50以上を数えた全ての炭鉱が閉山した。
芳ノ谷 層【よしのたにそう】
この地層は 薄い石炭層を挟む、砂岩 泥岩層 から成り立っています。今から5000万年前
新世代三紀ぐらいからの埋層地層と考えられています。
「唐津炭田の主な炭鉱」