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戦後の軍艦島における傾斜生産方式とスクラップ&ビルド
戦後の軍艦島における傾斜生産方式とスクラップ&ビルド
戦後の軍艦島における傾斜生産方式とスクラップ&ビルド
戦後の軍艦島における傾斜生産方式とスクラップ&ビルド
2025/03/18
戦後の軍艦島における傾斜生産方式とスクラップ&ビルド
戦後の軍艦島における傾斜生産方式とスクラップ&ビルド
戦後の軍艦島における傾斜生産方式とスクラップ&ビルド
戦後の軍艦島における傾斜生産方式とスクラップ&ビルド
こんにちは。
軍艦島デジタルミュージアム
近代史担当 トシです。
今回は軍艦島の戦後の経営と国の方針についての
お話をしたいと思います。

戦後経済対策「傾斜生産方式」
傾斜生産方式とは、第二次世界大戦後、日本がGHQ(アメリカ)によって行政が支配されていた時に、
日本の経済復興のために実行された経済政策です。
当時の基幹産業である「鉄鋼、石炭」に資材・資金を超重点的に投入し、
産業全体の拡大を図るというものです。
復興金融金庫法によって、日銀からの特別融資を生みだします。国債などを発行し
その巨額の資金を傾斜生産方式のもとで、石炭鉄鋼業につぎ込むのです。
つまり、復興金融金庫とは特別融資をするための(お金を生むための)機関にすぎず、
そのお金を重点的に使う方式にすぎないのが傾斜生産方式です。
復興金融金庫法によって、日銀からの特別融資を生みだします。鉄鋼業など、
早期に経済復興を行うために重要な分野を超重点的に復興する方式です。
鉄が無ければ何も出来ません。 終戦直後の日本の復興政策の要です。
補足 工場を建てるのも、工場で工業製品を生産するにも大量の鉄がいるため、
早期に復興するためには膨大な鉄が無ければ出来ないのです。
そのため鉄の生産に重点が置かれました。
戦後、日本の基幹産業を再生するために、GHQは鉄鋼業・石炭産業の再建に直接資金を提供。
出資金は税金の免除から政府援助にかわり70年代補助金制度の先駆けとなりました。
80年代にはアメリカにも日本に安い石炭を輸入するよう圧力をかけられ、
次々と競争力のない品質の石炭を扱う炭坑は閉山を余儀なくされ、
石炭産業も自由競争の経済原理に従うこととなりました。
炭坑業における「スクラップアンドビルド」とは
昭和33年当時の石炭業界は、全盛期は過ぎたといえ、
石油の進出に対抗すべくスクラップ&ビルドの合理化を推進中でした。
品質が落ちる炭坑はスクラップ坑として早期に閉山するところは、補助金制度も適用されました。
三菱鉱業の場合、九州ではビルド鉱として積極的な設備投資の真最中でした。
そして筑豊地区のスクラップ鉱の配転従業員の受け皿になっていました。
筑豊炭鉱が生活に使う燃料用の一般炭だったのに対し、
高島や端島の石炭は高カロリーの原料炭で、
石油に対抗できる商品でした。
特に端島炭(軍艦島炭)は売れ筋のブランド品でした。
この頃、三菱の炭鉱技術者達は
現在掘り進んでいるメイン坑道が海面下―1000mに深部化するに連れて、
安全性においても、採炭量においても、やがて行き詰まることを予想していました。
そのため、1955年頃より新しい可採区域を見つけるべく海底調査を行っていました。
そして、1964年8月のガス吐出火災事故の前から、新しい可採区域の候補として
1961年4月より三瀬区域へ向かって南西方向に掘進を開始しました。
三瀬地区開発は第二立坑のー350レベルより本連坑道を2本南西に向かって掘り進みました。
その後、1964年ガス吐出火災が起き、メイン坑道深部を水没させたことにより、
1961年4月より掘り始めていた三瀬区域への掘進はさらに急ピッチで行われ
1965年2月にようやく着炭しました。
しかし三ツ瀬地区の炭層は左右の両翼を断層によって切断されたような形にあり、
あらかじめ炭鉱の寿命は10年足らずと予測されていました。
そのため今後の事業を続けるためには新しい可採区域「端島沖炭層坑道」を探す必要がありました。
三菱は1968年より端島沖探炭坑道(たんたんこうどう)を海面下―600mレベルから西へと掘進を始めました。
昭和40年、端島沖探炭坑道の掘進に着工しました。
本坑道 704メーター 連坑道 720メーター掘り進みます。
しかし坑道を掘り進む途中で断層破砕帯に接触、大量に出水してしまいました。
(破砕帯とは断層に挟まれ細かく砕けた石の層、大量の水を含むことが多い)加えて、
各調査結果は炭層の位置が当初の予想よりさらに深く、海面下―1000mレベル以深と判明し、
端島沖区域開発を断念しました。三菱は1970年3月に組合員全員にその旨を発表しました。
組合側も独自の調査を行いましたが結果は同じで組合側も納得をしました。
速やかに従業員も会社側も閉山後の交渉が行われました。
労使交渉の主要点は
1、昭和49年1月15日をもって閉山し、同日に従業員を全員解雇する。
2、従業員の雇用の安定が図れるよう積極的に努力する。
3、退職者の諸取扱については、特別処置を行う。
昭和49年1月15日端島小学校の体育館において780人の出席者で
事故死215人の犠牲者に黙祷を捧げた後閉山式が始まりました。
『岩間社長」安全に、採炭できる炭を全て掘り尽くした。
天寿を全うしたとはいえ、断腸の思いだ。
「千住労組長」汗と炭塵にまみれた生産に励んだきた。
炭鉱の閉山旋風の中で黒字のまま閉山するのは端島炭坑だけである。誇りに思ってよい。』
2月6日 坑口密閉完了
3月19日 鉱業権消滅登録を完了
4月15日 全島民の離島完了
最後まで利益を生み出し取り尽くし閉山した端島炭坑。
清々しい幕引きでしたね。
それではそろそろ次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当 トシでした。
こんにちは。
軍艦島デジタルミュージアム
近代史担当 トシです。
今回は軍艦島の戦後の経営と国の方針についての
お話をしたいと思います。

戦後経済対策「傾斜生産方式」
傾斜生産方式とは、第二次世界大戦後、日本がGHQ(アメリカ)によって行政が支配されていた時に、
日本の経済復興のために実行された経済政策です。
当時の基幹産業である「鉄鋼、石炭」に資材・資金を超重点的に投入し、
産業全体の拡大を図るというものです。
復興金融金庫法によって、日銀からの特別融資を生みだします。国債などを発行し
その巨額の資金を傾斜生産方式のもとで、石炭鉄鋼業につぎ込むのです。
つまり、復興金融金庫とは特別融資をするための(お金を生むための)機関にすぎず、
そのお金を重点的に使う方式にすぎないのが傾斜生産方式です。
復興金融金庫法によって、日銀からの特別融資を生みだします。鉄鋼業など、
早期に経済復興を行うために重要な分野を超重点的に復興する方式です。
鉄が無ければ何も出来ません。 終戦直後の日本の復興政策の要です。
補足 工場を建てるのも、工場で工業製品を生産するにも大量の鉄がいるため、
早期に復興するためには膨大な鉄が無ければ出来ないのです。
そのため鉄の生産に重点が置かれました。
戦後、日本の基幹産業を再生するために、GHQは鉄鋼業・石炭産業の再建に直接資金を提供。
出資金は税金の免除から政府援助にかわり70年代補助金制度の先駆けとなりました。
80年代にはアメリカにも日本に安い石炭を輸入するよう圧力をかけられ、
次々と競争力のない品質の石炭を扱う炭坑は閉山を余儀なくされ、
石炭産業も自由競争の経済原理に従うこととなりました。
炭坑業における「スクラップアンドビルド」とは
昭和33年当時の石炭業界は、全盛期は過ぎたといえ、
石油の進出に対抗すべくスクラップ&ビルドの合理化を推進中でした。
品質が落ちる炭坑はスクラップ坑として早期に閉山するところは、補助金制度も適用されました。
三菱鉱業の場合、九州ではビルド鉱として積極的な設備投資の真最中でした。
そして筑豊地区のスクラップ鉱の配転従業員の受け皿になっていました。
筑豊炭鉱が生活に使う燃料用の一般炭だったのに対し、
高島や端島の石炭は高カロリーの原料炭で、
石油に対抗できる商品でした。
特に端島炭(軍艦島炭)は売れ筋のブランド品でした。
この頃、三菱の炭鉱技術者達は
現在掘り進んでいるメイン坑道が海面下―1000mに深部化するに連れて、
安全性においても、採炭量においても、やがて行き詰まることを予想していました。
そのため、1955年頃より新しい可採区域を見つけるべく海底調査を行っていました。
そして、1964年8月のガス吐出火災事故の前から、新しい可採区域の候補として
1961年4月より三瀬区域へ向かって南西方向に掘進を開始しました。
三瀬地区開発は第二立坑のー350レベルより本連坑道を2本南西に向かって掘り進みました。
その後、1964年ガス吐出火災が起き、メイン坑道深部を水没させたことにより、
1961年4月より掘り始めていた三瀬区域への掘進はさらに急ピッチで行われ
1965年2月にようやく着炭しました。
しかし三ツ瀬地区の炭層は左右の両翼を断層によって切断されたような形にあり、
あらかじめ炭鉱の寿命は10年足らずと予測されていました。
そのため今後の事業を続けるためには新しい可採区域「端島沖炭層坑道」を探す必要がありました。
三菱は1968年より端島沖探炭坑道(たんたんこうどう)を海面下―600mレベルから西へと掘進を始めました。
昭和40年、端島沖探炭坑道の掘進に着工しました。
本坑道 704メーター 連坑道 720メーター掘り進みます。
しかし坑道を掘り進む途中で断層破砕帯に接触、大量に出水してしまいました。
(破砕帯とは断層に挟まれ細かく砕けた石の層、大量の水を含むことが多い)加えて、
各調査結果は炭層の位置が当初の予想よりさらに深く、海面下―1000mレベル以深と判明し、
端島沖区域開発を断念しました。三菱は1970年3月に組合員全員にその旨を発表しました。
組合側も独自の調査を行いましたが結果は同じで組合側も納得をしました。
速やかに従業員も会社側も閉山後の交渉が行われました。
労使交渉の主要点は
1、昭和49年1月15日をもって閉山し、同日に従業員を全員解雇する。
2、従業員の雇用の安定が図れるよう積極的に努力する。
3、退職者の諸取扱については、特別処置を行う。
昭和49年1月15日端島小学校の体育館において780人の出席者で
事故死215人の犠牲者に黙祷を捧げた後閉山式が始まりました。
『岩間社長」安全に、採炭できる炭を全て掘り尽くした。
天寿を全うしたとはいえ、断腸の思いだ。
「千住労組長」汗と炭塵にまみれた生産に励んだきた。
炭鉱の閉山旋風の中で黒字のまま閉山するのは端島炭坑だけである。誇りに思ってよい。』
2月6日 坑口密閉完了
3月19日 鉱業権消滅登録を完了
4月15日 全島民の離島完了
最後まで利益を生み出し取り尽くし閉山した端島炭坑。
清々しい幕引きでしたね。
それではそろそろ次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当 トシでした。
こんにちは。
軍艦島デジタルミュージアム
近代史担当 トシです。
今回は軍艦島の戦後の経営と国の方針についての
お話をしたいと思います。

戦後経済対策「傾斜生産方式」
傾斜生産方式とは、第二次世界大戦後、日本がGHQ(アメリカ)によって行政が支配されていた時に、
日本の経済復興のために実行された経済政策です。
当時の基幹産業である「鉄鋼、石炭」に資材・資金を超重点的に投入し、
産業全体の拡大を図るというものです。
復興金融金庫法によって、日銀からの特別融資を生みだします。国債などを発行し
その巨額の資金を傾斜生産方式のもとで、石炭鉄鋼業につぎ込むのです。
つまり、復興金融金庫とは特別融資をするための(お金を生むための)機関にすぎず、
そのお金を重点的に使う方式にすぎないのが傾斜生産方式です。
復興金融金庫法によって、日銀からの特別融資を生みだします。鉄鋼業など、
早期に経済復興を行うために重要な分野を超重点的に復興する方式です。
鉄が無ければ何も出来ません。 終戦直後の日本の復興政策の要です。
補足 工場を建てるのも、工場で工業製品を生産するにも大量の鉄がいるため、
早期に復興するためには膨大な鉄が無ければ出来ないのです。
そのため鉄の生産に重点が置かれました。
戦後、日本の基幹産業を再生するために、GHQは鉄鋼業・石炭産業の再建に直接資金を提供。
出資金は税金の免除から政府援助にかわり70年代補助金制度の先駆けとなりました。
80年代にはアメリカにも日本に安い石炭を輸入するよう圧力をかけられ、
次々と競争力のない品質の石炭を扱う炭坑は閉山を余儀なくされ、
石炭産業も自由競争の経済原理に従うこととなりました。
炭坑業における「スクラップアンドビルド」とは
昭和33年当時の石炭業界は、全盛期は過ぎたといえ、
石油の進出に対抗すべくスクラップ&ビルドの合理化を推進中でした。
品質が落ちる炭坑はスクラップ坑として早期に閉山するところは、補助金制度も適用されました。
三菱鉱業の場合、九州ではビルド鉱として積極的な設備投資の真最中でした。
そして筑豊地区のスクラップ鉱の配転従業員の受け皿になっていました。
筑豊炭鉱が生活に使う燃料用の一般炭だったのに対し、
高島や端島の石炭は高カロリーの原料炭で、
石油に対抗できる商品でした。
特に端島炭(軍艦島炭)は売れ筋のブランド品でした。
この頃、三菱の炭鉱技術者達は
現在掘り進んでいるメイン坑道が海面下―1000mに深部化するに連れて、
安全性においても、採炭量においても、やがて行き詰まることを予想していました。
そのため、1955年頃より新しい可採区域を見つけるべく海底調査を行っていました。
そして、1964年8月のガス吐出火災事故の前から、新しい可採区域の候補として
1961年4月より三瀬区域へ向かって南西方向に掘進を開始しました。
三瀬地区開発は第二立坑のー350レベルより本連坑道を2本南西に向かって掘り進みました。
その後、1964年ガス吐出火災が起き、メイン坑道深部を水没させたことにより、
1961年4月より掘り始めていた三瀬区域への掘進はさらに急ピッチで行われ
1965年2月にようやく着炭しました。
しかし三ツ瀬地区の炭層は左右の両翼を断層によって切断されたような形にあり、
あらかじめ炭鉱の寿命は10年足らずと予測されていました。
そのため今後の事業を続けるためには新しい可採区域「端島沖炭層坑道」を探す必要がありました。
三菱は1968年より端島沖探炭坑道(たんたんこうどう)を海面下―600mレベルから西へと掘進を始めました。
昭和40年、端島沖探炭坑道の掘進に着工しました。
本坑道 704メーター 連坑道 720メーター掘り進みます。
しかし坑道を掘り進む途中で断層破砕帯に接触、大量に出水してしまいました。
(破砕帯とは断層に挟まれ細かく砕けた石の層、大量の水を含むことが多い)加えて、
各調査結果は炭層の位置が当初の予想よりさらに深く、海面下―1000mレベル以深と判明し、
端島沖区域開発を断念しました。三菱は1970年3月に組合員全員にその旨を発表しました。
組合側も独自の調査を行いましたが結果は同じで組合側も納得をしました。
速やかに従業員も会社側も閉山後の交渉が行われました。
労使交渉の主要点は
1、昭和49年1月15日をもって閉山し、同日に従業員を全員解雇する。
2、従業員の雇用の安定が図れるよう積極的に努力する。
3、退職者の諸取扱については、特別処置を行う。
昭和49年1月15日端島小学校の体育館において780人の出席者で
事故死215人の犠牲者に黙祷を捧げた後閉山式が始まりました。
『岩間社長」安全に、採炭できる炭を全て掘り尽くした。
天寿を全うしたとはいえ、断腸の思いだ。
「千住労組長」汗と炭塵にまみれた生産に励んだきた。
炭鉱の閉山旋風の中で黒字のまま閉山するのは端島炭坑だけである。誇りに思ってよい。』
2月6日 坑口密閉完了
3月19日 鉱業権消滅登録を完了
4月15日 全島民の離島完了
最後まで利益を生み出し取り尽くし閉山した端島炭坑。
清々しい幕引きでしたね。
それではそろそろ次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当 トシでした。
こんにちは。
軍艦島デジタルミュージアム
近代史担当 トシです。
今回は軍艦島の戦後の経営と国の方針についての
お話をしたいと思います。

戦後経済対策「傾斜生産方式」
傾斜生産方式とは、第二次世界大戦後、日本がGHQ(アメリカ)によって行政が支配されていた時に、
日本の経済復興のために実行された経済政策です。
当時の基幹産業である「鉄鋼、石炭」に資材・資金を超重点的に投入し、
産業全体の拡大を図るというものです。
復興金融金庫法によって、日銀からの特別融資を生みだします。国債などを発行し
その巨額の資金を傾斜生産方式のもとで、石炭鉄鋼業につぎ込むのです。
つまり、復興金融金庫とは特別融資をするための(お金を生むための)機関にすぎず、
そのお金を重点的に使う方式にすぎないのが傾斜生産方式です。
復興金融金庫法によって、日銀からの特別融資を生みだします。鉄鋼業など、
早期に経済復興を行うために重要な分野を超重点的に復興する方式です。
鉄が無ければ何も出来ません。 終戦直後の日本の復興政策の要です。
補足 工場を建てるのも、工場で工業製品を生産するにも大量の鉄がいるため、
早期に復興するためには膨大な鉄が無ければ出来ないのです。
そのため鉄の生産に重点が置かれました。
戦後、日本の基幹産業を再生するために、GHQは鉄鋼業・石炭産業の再建に直接資金を提供。
出資金は税金の免除から政府援助にかわり70年代補助金制度の先駆けとなりました。
80年代にはアメリカにも日本に安い石炭を輸入するよう圧力をかけられ、
次々と競争力のない品質の石炭を扱う炭坑は閉山を余儀なくされ、
石炭産業も自由競争の経済原理に従うこととなりました。
炭坑業における「スクラップアンドビルド」とは
昭和33年当時の石炭業界は、全盛期は過ぎたといえ、
石油の進出に対抗すべくスクラップ&ビルドの合理化を推進中でした。
品質が落ちる炭坑はスクラップ坑として早期に閉山するところは、補助金制度も適用されました。
三菱鉱業の場合、九州ではビルド鉱として積極的な設備投資の真最中でした。
そして筑豊地区のスクラップ鉱の配転従業員の受け皿になっていました。
筑豊炭鉱が生活に使う燃料用の一般炭だったのに対し、
高島や端島の石炭は高カロリーの原料炭で、
石油に対抗できる商品でした。
特に端島炭(軍艦島炭)は売れ筋のブランド品でした。
この頃、三菱の炭鉱技術者達は
現在掘り進んでいるメイン坑道が海面下―1000mに深部化するに連れて、
安全性においても、採炭量においても、やがて行き詰まることを予想していました。
そのため、1955年頃より新しい可採区域を見つけるべく海底調査を行っていました。
そして、1964年8月のガス吐出火災事故の前から、新しい可採区域の候補として
1961年4月より三瀬区域へ向かって南西方向に掘進を開始しました。
三瀬地区開発は第二立坑のー350レベルより本連坑道を2本南西に向かって掘り進みました。
その後、1964年ガス吐出火災が起き、メイン坑道深部を水没させたことにより、
1961年4月より掘り始めていた三瀬区域への掘進はさらに急ピッチで行われ
1965年2月にようやく着炭しました。
しかし三ツ瀬地区の炭層は左右の両翼を断層によって切断されたような形にあり、
あらかじめ炭鉱の寿命は10年足らずと予測されていました。
そのため今後の事業を続けるためには新しい可採区域「端島沖炭層坑道」を探す必要がありました。
三菱は1968年より端島沖探炭坑道(たんたんこうどう)を海面下―600mレベルから西へと掘進を始めました。
昭和40年、端島沖探炭坑道の掘進に着工しました。
本坑道 704メーター 連坑道 720メーター掘り進みます。
しかし坑道を掘り進む途中で断層破砕帯に接触、大量に出水してしまいました。
(破砕帯とは断層に挟まれ細かく砕けた石の層、大量の水を含むことが多い)加えて、
各調査結果は炭層の位置が当初の予想よりさらに深く、海面下―1000mレベル以深と判明し、
端島沖区域開発を断念しました。三菱は1970年3月に組合員全員にその旨を発表しました。
組合側も独自の調査を行いましたが結果は同じで組合側も納得をしました。
速やかに従業員も会社側も閉山後の交渉が行われました。
労使交渉の主要点は
1、昭和49年1月15日をもって閉山し、同日に従業員を全員解雇する。
2、従業員の雇用の安定が図れるよう積極的に努力する。
3、退職者の諸取扱については、特別処置を行う。
昭和49年1月15日端島小学校の体育館において780人の出席者で
事故死215人の犠牲者に黙祷を捧げた後閉山式が始まりました。
『岩間社長」安全に、採炭できる炭を全て掘り尽くした。
天寿を全うしたとはいえ、断腸の思いだ。
「千住労組長」汗と炭塵にまみれた生産に励んだきた。
炭鉱の閉山旋風の中で黒字のまま閉山するのは端島炭坑だけである。誇りに思ってよい。』
2月6日 坑口密閉完了
3月19日 鉱業権消滅登録を完了
4月15日 全島民の離島完了
最後まで利益を生み出し取り尽くし閉山した端島炭坑。
清々しい幕引きでしたね。
それではそろそろ次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当 トシでした。