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2025/08/20
三菱長崎技術学校と長崎造船所
三菱長崎技術学校と長崎造船所
三菱長崎技術学校と長崎造船所
三菱長崎技術学校と長崎造船所
こんにちは。
軍艦島デジタルミュージアム近代史担当 トシです。
毎日記録的な暑さがつづいておりますが、
皆さんお元気でお過ごしでしょうか。
今回は長崎造船所の基礎を支えた
「三菱長崎技術学校」(技学)のお話をしたいと思います。

↑ 三菱長崎造船技術学校の朝礼 昭和32年 前年在籍者数は325名
「三菱長崎技術学校」は長崎造船所の2代目所長「荘田平五郎」が、
1899年に設立した三菱工業予備学校が前身。
戦後は、1970年の閉校までに、1788名が卒業した。
給料をもらいながら一般高校並みの知識と、専門技術を学べるとあって
一時は入学競争率12倍の難関だった。
長崎造船所(ながせん)は明治新政府がスタートした時代に
「徳川幕府長崎製鉄所」として明治新政府の管理下に置かれ、
明治4年工部省長崎造船所となり、明治17年
民間へ貸与されたのち払い下げられた。
長崎に大型の造船所ができた理由は、
出島を介してオランダと深くて長い交流があったからでもあります。
長崎海軍伝習所開校時も、オランダより
練習船「観光丸」をプレゼントしてもらっているばかりでなく、
操船技術も海軍軍人たちに指導を受けている。
長崎造船所は「長崎造船所150年史」によれば、
1857年10月10日が創業となっている。

明治二十七年の立神ドック、ドック内では修繕工事中です。
日本海運の風雲児「岩崎弥太郎」は、台湾出兵や「西南の役」に、
他の財閥が渋る中、積極的に明治政府に協力したおかげで
一躍、日本の海運王へと躍り出た。

「夕顔丸」三菱の鉄船第一号。明治二十年(1887)〜昭和三十七年3月廃船
長崎港と高島、端島の連絡航路として活躍、島民に一番愛された船です。
明治20年2月進水式の様子。土砂面を利用しての建造だ。
しかしその後、大隈重信の後ろ盾を失うことになる。
大隈重信が、明治14年突然政界を追放される事態になったのです。
三菱の海運業独占を、苦々しく思わなかった海運会社のバックには
三井の大番頭「益田孝」が付きました。
政界では三井びいきの「井上馨」、財界の大物「渋沢栄一」が付きました。
そのため、三菱は厳しい状況に追い込まれました。
「西郷従道」の計らいにより、三菱と政府は資本を出し合い[日本郵船会社]を設立し、
この争いも決着がついた。
さらに三菱の優秀な若手幹部「荘田平五郎」も日本郵船会社にもっていかれた。
この事によって、事実上三菱の名前は日本から消えてしまうこととなる。
三菱は文字通り、海から陸へと転進する事を余儀なくされた。
仲介役の「西郷従道」は、部の悪い三菱に対してその代わりのつもりか、
官営「長崎製鉄所」を三菱に払い下げる。これが後に三菱造船所となる。
三菱のドル箱となるのだが、
「天はことごとく三菱を大きくしたいようである。」
という結果になった。
政府の共同運輸との安売り合戦の途中、弥太郎は亡くなり
あとを弟の弥之助が交渉に当たることとなる。
三菱二代目社長「岩﨑弥之助」は三菱を多角経営と変え、
金属、鉱山(炭鉱)造船、金融、倉庫業と多角経営は順調に伸びていった。
いずれも、弥太郎が生前運輸会社で稼いだ金で、
道楽とも取れる事業がそれぞれ伸びていくわけである。
「三菱長崎技術学校」を語るうえで、どうしても上がる名前が
荘田平五郎(しょうだ・へいごろう)である。

岩崎弥太郎は頑固で人の指図など受けないような人物に感じるが、
尊敬する福沢諭吉の意見だけはよく聞いたそうだ。
福沢は弥太郎に優れた人物を紹介してくれと頼まれたとき、
迷うことなく、荘田平五郎を紹介したそうだ。
三菱グループの創始者、岩崎弥太郎が他社に先駆けて三菱商船学校や三菱商業学校を設立した。実践に役立つ人材を養成するためだ。
同じ考えのもとに荘田は、明治32年(1899年)
三菱鉱業予備学校(後の三菱長崎造船所技術学校)を設立した。
荘田が4年間の間、長崎造船所に残したものは大きかった。
造船は工期が長く、職種がいくつにもまたがることもあって
経理面がどんぶり勘定になりがちだ。それを補うため、
「工業会計」、「原価計算制度」採用し、会社社則などを制定した。
また、荘田は福利厚生面に関しても深い理解を示し、
明治30年我が国初の「三菱病院」を設立した。
また「退職金制度」を実施し、当時としては破格の優遇制度だ。

最初にできた丸の内の三菱のビジネスビル。正式な買収日時は、1890年3月6日であり、
三菱財閥は128万円(東京市の3年分の予算である)を投じて、
東京丸ノ内の広大な敷地を政府より一括で買収した。
当時の東京都の三年分の予算に匹敵するほどの巨額な投資であった。
この時の指示も、荘田平五郎から若い岩崎弥之助にやらせたものであると言われている。
戦後の造船業を支えた「全溶接によるブロック建造技術」は
工期の劇的短縮を生んだ。
船舶建造技術の、主流をなした溶接ブロック建造技術の最大のメリットは「工数」の少なさにある。
日本造船業の技術革新のポイントは、いかにして建造方法を生産現場に組み込み、
「生産の合理化」にあった。
上記の技術により戦後復興の主力となったのが
造船業であると言えるだろう。

エネルギーの主流が石油となり、それを輸送するには大型タンカーの需要が高まった。

長崎造船所は、工期の短さで世界の需要に答えることができた。
イギリスの3分の1の工期で注文者に渡すことができたそうだ。
その速さがあったために、年間進水量世界一を15回も達成すること出来たのだろう。
そして、その現場の技術力と確かな腕を持った職人集団を育てたのが
「三菱長崎技術学校」であったことは間違いない。
※戦後復興に大きく貢献したのが、長崎の場合「水産業」「炭鉱業」そして「造船業」である。
炭鉱業は、1960年頃には既に燃料炭は、石油の影響もあり衰えの兆しを見せていた。
しかし、造船業1960年~1970年頃は絶好調であった。
このブログは「三菱長崎技術学校の造船マン」という
本の感想文として制作しました。
そしてこの本の作者、長崎在住のフリーライター山口幸彦氏に心より感謝いたします。
それでは、この次のブログでお会いしたいと思います。
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当 ガイドのトシでした。
こんにちは。
軍艦島デジタルミュージアム近代史担当 トシです。
毎日記録的な暑さがつづいておりますが、
皆さんお元気でお過ごしでしょうか。
今回は長崎造船所の基礎を支えた
「三菱長崎技術学校」(技学)のお話をしたいと思います。

↑ 三菱長崎造船技術学校の朝礼 昭和32年 前年在籍者数は325名
「三菱長崎技術学校」は長崎造船所の2代目所長「荘田平五郎」が、
1899年に設立した三菱工業予備学校が前身。
戦後は、1970年の閉校までに、1788名が卒業した。
給料をもらいながら一般高校並みの知識と、専門技術を学べるとあって
一時は入学競争率12倍の難関だった。
長崎造船所(ながせん)は明治新政府がスタートした時代に
「徳川幕府長崎製鉄所」として明治新政府の管理下に置かれ、
明治4年工部省長崎造船所となり、明治17年
民間へ貸与されたのち払い下げられた。
長崎に大型の造船所ができた理由は、
出島を介してオランダと深くて長い交流があったからでもあります。
長崎海軍伝習所開校時も、オランダより
練習船「観光丸」をプレゼントしてもらっているばかりでなく、
操船技術も海軍軍人たちに指導を受けている。
長崎造船所は「長崎造船所150年史」によれば、
1857年10月10日が創業となっている。

明治二十七年の立神ドック、ドック内では修繕工事中です。
日本海運の風雲児「岩崎弥太郎」は、台湾出兵や「西南の役」に、
他の財閥が渋る中、積極的に明治政府に協力したおかげで
一躍、日本の海運王へと躍り出た。

「夕顔丸」三菱の鉄船第一号。明治二十年(1887)〜昭和三十七年3月廃船
長崎港と高島、端島の連絡航路として活躍、島民に一番愛された船です。
明治20年2月進水式の様子。土砂面を利用しての建造だ。
しかしその後、大隈重信の後ろ盾を失うことになる。
大隈重信が、明治14年突然政界を追放される事態になったのです。
三菱の海運業独占を、苦々しく思わなかった海運会社のバックには
三井の大番頭「益田孝」が付きました。
政界では三井びいきの「井上馨」、財界の大物「渋沢栄一」が付きました。
そのため、三菱は厳しい状況に追い込まれました。
「西郷従道」の計らいにより、三菱と政府は資本を出し合い[日本郵船会社]を設立し、
この争いも決着がついた。
さらに三菱の優秀な若手幹部「荘田平五郎」も日本郵船会社にもっていかれた。
この事によって、事実上三菱の名前は日本から消えてしまうこととなる。
三菱は文字通り、海から陸へと転進する事を余儀なくされた。
仲介役の「西郷従道」は、部の悪い三菱に対してその代わりのつもりか、
官営「長崎製鉄所」を三菱に払い下げる。これが後に三菱造船所となる。
三菱のドル箱となるのだが、
「天はことごとく三菱を大きくしたいようである。」
という結果になった。
政府の共同運輸との安売り合戦の途中、弥太郎は亡くなり
あとを弟の弥之助が交渉に当たることとなる。
三菱二代目社長「岩﨑弥之助」は三菱を多角経営と変え、
金属、鉱山(炭鉱)造船、金融、倉庫業と多角経営は順調に伸びていった。
いずれも、弥太郎が生前運輸会社で稼いだ金で、
道楽とも取れる事業がそれぞれ伸びていくわけである。
「三菱長崎技術学校」を語るうえで、どうしても上がる名前が
荘田平五郎(しょうだ・へいごろう)である。

岩崎弥太郎は頑固で人の指図など受けないような人物に感じるが、
尊敬する福沢諭吉の意見だけはよく聞いたそうだ。
福沢は弥太郎に優れた人物を紹介してくれと頼まれたとき、
迷うことなく、荘田平五郎を紹介したそうだ。
三菱グループの創始者、岩崎弥太郎が他社に先駆けて三菱商船学校や三菱商業学校を設立した。実践に役立つ人材を養成するためだ。
同じ考えのもとに荘田は、明治32年(1899年)
三菱鉱業予備学校(後の三菱長崎造船所技術学校)を設立した。
荘田が4年間の間、長崎造船所に残したものは大きかった。
造船は工期が長く、職種がいくつにもまたがることもあって
経理面がどんぶり勘定になりがちだ。それを補うため、
「工業会計」、「原価計算制度」採用し、会社社則などを制定した。
また、荘田は福利厚生面に関しても深い理解を示し、
明治30年我が国初の「三菱病院」を設立した。
また「退職金制度」を実施し、当時としては破格の優遇制度だ。

最初にできた丸の内の三菱のビジネスビル。正式な買収日時は、1890年3月6日であり、
三菱財閥は128万円(東京市の3年分の予算である)を投じて、
東京丸ノ内の広大な敷地を政府より一括で買収した。
当時の東京都の三年分の予算に匹敵するほどの巨額な投資であった。
この時の指示も、荘田平五郎から若い岩崎弥之助にやらせたものであると言われている。
戦後の造船業を支えた「全溶接によるブロック建造技術」は
工期の劇的短縮を生んだ。
船舶建造技術の、主流をなした溶接ブロック建造技術の最大のメリットは「工数」の少なさにある。
日本造船業の技術革新のポイントは、いかにして建造方法を生産現場に組み込み、
「生産の合理化」にあった。
上記の技術により戦後復興の主力となったのが
造船業であると言えるだろう。

エネルギーの主流が石油となり、それを輸送するには大型タンカーの需要が高まった。

長崎造船所は、工期の短さで世界の需要に答えることができた。
イギリスの3分の1の工期で注文者に渡すことができたそうだ。
その速さがあったために、年間進水量世界一を15回も達成すること出来たのだろう。
そして、その現場の技術力と確かな腕を持った職人集団を育てたのが
「三菱長崎技術学校」であったことは間違いない。
※戦後復興に大きく貢献したのが、長崎の場合「水産業」「炭鉱業」そして「造船業」である。
炭鉱業は、1960年頃には既に燃料炭は、石油の影響もあり衰えの兆しを見せていた。
しかし、造船業1960年~1970年頃は絶好調であった。
このブログは「三菱長崎技術学校の造船マン」という
本の感想文として制作しました。
そしてこの本の作者、長崎在住のフリーライター山口幸彦氏に心より感謝いたします。
それでは、この次のブログでお会いしたいと思います。
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当 ガイドのトシでした。
こんにちは。
軍艦島デジタルミュージアム近代史担当 トシです。
毎日記録的な暑さがつづいておりますが、
皆さんお元気でお過ごしでしょうか。
今回は長崎造船所の基礎を支えた
「三菱長崎技術学校」(技学)のお話をしたいと思います。

↑ 三菱長崎造船技術学校の朝礼 昭和32年 前年在籍者数は325名
「三菱長崎技術学校」は長崎造船所の2代目所長「荘田平五郎」が、
1899年に設立した三菱工業予備学校が前身。
戦後は、1970年の閉校までに、1788名が卒業した。
給料をもらいながら一般高校並みの知識と、専門技術を学べるとあって
一時は入学競争率12倍の難関だった。
長崎造船所(ながせん)は明治新政府がスタートした時代に
「徳川幕府長崎製鉄所」として明治新政府の管理下に置かれ、
明治4年工部省長崎造船所となり、明治17年
民間へ貸与されたのち払い下げられた。
長崎に大型の造船所ができた理由は、
出島を介してオランダと深くて長い交流があったからでもあります。
長崎海軍伝習所開校時も、オランダより
練習船「観光丸」をプレゼントしてもらっているばかりでなく、
操船技術も海軍軍人たちに指導を受けている。
長崎造船所は「長崎造船所150年史」によれば、
1857年10月10日が創業となっている。

明治二十七年の立神ドック、ドック内では修繕工事中です。
日本海運の風雲児「岩崎弥太郎」は、台湾出兵や「西南の役」に、
他の財閥が渋る中、積極的に明治政府に協力したおかげで
一躍、日本の海運王へと躍り出た。

「夕顔丸」三菱の鉄船第一号。明治二十年(1887)〜昭和三十七年3月廃船
長崎港と高島、端島の連絡航路として活躍、島民に一番愛された船です。
明治20年2月進水式の様子。土砂面を利用しての建造だ。
しかしその後、大隈重信の後ろ盾を失うことになる。
大隈重信が、明治14年突然政界を追放される事態になったのです。
三菱の海運業独占を、苦々しく思わなかった海運会社のバックには
三井の大番頭「益田孝」が付きました。
政界では三井びいきの「井上馨」、財界の大物「渋沢栄一」が付きました。
そのため、三菱は厳しい状況に追い込まれました。
「西郷従道」の計らいにより、三菱と政府は資本を出し合い[日本郵船会社]を設立し、
この争いも決着がついた。
さらに三菱の優秀な若手幹部「荘田平五郎」も日本郵船会社にもっていかれた。
この事によって、事実上三菱の名前は日本から消えてしまうこととなる。
三菱は文字通り、海から陸へと転進する事を余儀なくされた。
仲介役の「西郷従道」は、部の悪い三菱に対してその代わりのつもりか、
官営「長崎製鉄所」を三菱に払い下げる。これが後に三菱造船所となる。
三菱のドル箱となるのだが、
「天はことごとく三菱を大きくしたいようである。」
という結果になった。
政府の共同運輸との安売り合戦の途中、弥太郎は亡くなり
あとを弟の弥之助が交渉に当たることとなる。
三菱二代目社長「岩﨑弥之助」は三菱を多角経営と変え、
金属、鉱山(炭鉱)造船、金融、倉庫業と多角経営は順調に伸びていった。
いずれも、弥太郎が生前運輸会社で稼いだ金で、
道楽とも取れる事業がそれぞれ伸びていくわけである。
「三菱長崎技術学校」を語るうえで、どうしても上がる名前が
荘田平五郎(しょうだ・へいごろう)である。

岩崎弥太郎は頑固で人の指図など受けないような人物に感じるが、
尊敬する福沢諭吉の意見だけはよく聞いたそうだ。
福沢は弥太郎に優れた人物を紹介してくれと頼まれたとき、
迷うことなく、荘田平五郎を紹介したそうだ。
三菱グループの創始者、岩崎弥太郎が他社に先駆けて三菱商船学校や三菱商業学校を設立した。実践に役立つ人材を養成するためだ。
同じ考えのもとに荘田は、明治32年(1899年)
三菱鉱業予備学校(後の三菱長崎造船所技術学校)を設立した。
荘田が4年間の間、長崎造船所に残したものは大きかった。
造船は工期が長く、職種がいくつにもまたがることもあって
経理面がどんぶり勘定になりがちだ。それを補うため、
「工業会計」、「原価計算制度」採用し、会社社則などを制定した。
また、荘田は福利厚生面に関しても深い理解を示し、
明治30年我が国初の「三菱病院」を設立した。
また「退職金制度」を実施し、当時としては破格の優遇制度だ。

最初にできた丸の内の三菱のビジネスビル。正式な買収日時は、1890年3月6日であり、
三菱財閥は128万円(東京市の3年分の予算である)を投じて、
東京丸ノ内の広大な敷地を政府より一括で買収した。
当時の東京都の三年分の予算に匹敵するほどの巨額な投資であった。
この時の指示も、荘田平五郎から若い岩崎弥之助にやらせたものであると言われている。
戦後の造船業を支えた「全溶接によるブロック建造技術」は
工期の劇的短縮を生んだ。
船舶建造技術の、主流をなした溶接ブロック建造技術の最大のメリットは「工数」の少なさにある。
日本造船業の技術革新のポイントは、いかにして建造方法を生産現場に組み込み、
「生産の合理化」にあった。
上記の技術により戦後復興の主力となったのが
造船業であると言えるだろう。

エネルギーの主流が石油となり、それを輸送するには大型タンカーの需要が高まった。

長崎造船所は、工期の短さで世界の需要に答えることができた。
イギリスの3分の1の工期で注文者に渡すことができたそうだ。
その速さがあったために、年間進水量世界一を15回も達成すること出来たのだろう。
そして、その現場の技術力と確かな腕を持った職人集団を育てたのが
「三菱長崎技術学校」であったことは間違いない。
※戦後復興に大きく貢献したのが、長崎の場合「水産業」「炭鉱業」そして「造船業」である。
炭鉱業は、1960年頃には既に燃料炭は、石油の影響もあり衰えの兆しを見せていた。
しかし、造船業1960年~1970年頃は絶好調であった。
このブログは「三菱長崎技術学校の造船マン」という
本の感想文として制作しました。
そしてこの本の作者、長崎在住のフリーライター山口幸彦氏に心より感謝いたします。
それでは、この次のブログでお会いしたいと思います。
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当 ガイドのトシでした。
こんにちは。
軍艦島デジタルミュージアム近代史担当 トシです。
毎日記録的な暑さがつづいておりますが、
皆さんお元気でお過ごしでしょうか。
今回は長崎造船所の基礎を支えた
「三菱長崎技術学校」(技学)のお話をしたいと思います。

↑ 三菱長崎造船技術学校の朝礼 昭和32年 前年在籍者数は325名
「三菱長崎技術学校」は長崎造船所の2代目所長「荘田平五郎」が、
1899年に設立した三菱工業予備学校が前身。
戦後は、1970年の閉校までに、1788名が卒業した。
給料をもらいながら一般高校並みの知識と、専門技術を学べるとあって
一時は入学競争率12倍の難関だった。
長崎造船所(ながせん)は明治新政府がスタートした時代に
「徳川幕府長崎製鉄所」として明治新政府の管理下に置かれ、
明治4年工部省長崎造船所となり、明治17年
民間へ貸与されたのち払い下げられた。
長崎に大型の造船所ができた理由は、
出島を介してオランダと深くて長い交流があったからでもあります。
長崎海軍伝習所開校時も、オランダより
練習船「観光丸」をプレゼントしてもらっているばかりでなく、
操船技術も海軍軍人たちに指導を受けている。
長崎造船所は「長崎造船所150年史」によれば、
1857年10月10日が創業となっている。

明治二十七年の立神ドック、ドック内では修繕工事中です。
日本海運の風雲児「岩崎弥太郎」は、台湾出兵や「西南の役」に、
他の財閥が渋る中、積極的に明治政府に協力したおかげで
一躍、日本の海運王へと躍り出た。

「夕顔丸」三菱の鉄船第一号。明治二十年(1887)〜昭和三十七年3月廃船
長崎港と高島、端島の連絡航路として活躍、島民に一番愛された船です。
明治20年2月進水式の様子。土砂面を利用しての建造だ。
しかしその後、大隈重信の後ろ盾を失うことになる。
大隈重信が、明治14年突然政界を追放される事態になったのです。
三菱の海運業独占を、苦々しく思わなかった海運会社のバックには
三井の大番頭「益田孝」が付きました。
政界では三井びいきの「井上馨」、財界の大物「渋沢栄一」が付きました。
そのため、三菱は厳しい状況に追い込まれました。
「西郷従道」の計らいにより、三菱と政府は資本を出し合い[日本郵船会社]を設立し、
この争いも決着がついた。
さらに三菱の優秀な若手幹部「荘田平五郎」も日本郵船会社にもっていかれた。
この事によって、事実上三菱の名前は日本から消えてしまうこととなる。
三菱は文字通り、海から陸へと転進する事を余儀なくされた。
仲介役の「西郷従道」は、部の悪い三菱に対してその代わりのつもりか、
官営「長崎製鉄所」を三菱に払い下げる。これが後に三菱造船所となる。
三菱のドル箱となるのだが、
「天はことごとく三菱を大きくしたいようである。」
という結果になった。
政府の共同運輸との安売り合戦の途中、弥太郎は亡くなり
あとを弟の弥之助が交渉に当たることとなる。
三菱二代目社長「岩﨑弥之助」は三菱を多角経営と変え、
金属、鉱山(炭鉱)造船、金融、倉庫業と多角経営は順調に伸びていった。
いずれも、弥太郎が生前運輸会社で稼いだ金で、
道楽とも取れる事業がそれぞれ伸びていくわけである。
「三菱長崎技術学校」を語るうえで、どうしても上がる名前が
荘田平五郎(しょうだ・へいごろう)である。

岩崎弥太郎は頑固で人の指図など受けないような人物に感じるが、
尊敬する福沢諭吉の意見だけはよく聞いたそうだ。
福沢は弥太郎に優れた人物を紹介してくれと頼まれたとき、
迷うことなく、荘田平五郎を紹介したそうだ。
三菱グループの創始者、岩崎弥太郎が他社に先駆けて三菱商船学校や三菱商業学校を設立した。実践に役立つ人材を養成するためだ。
同じ考えのもとに荘田は、明治32年(1899年)
三菱鉱業予備学校(後の三菱長崎造船所技術学校)を設立した。
荘田が4年間の間、長崎造船所に残したものは大きかった。
造船は工期が長く、職種がいくつにもまたがることもあって
経理面がどんぶり勘定になりがちだ。それを補うため、
「工業会計」、「原価計算制度」採用し、会社社則などを制定した。
また、荘田は福利厚生面に関しても深い理解を示し、
明治30年我が国初の「三菱病院」を設立した。
また「退職金制度」を実施し、当時としては破格の優遇制度だ。

最初にできた丸の内の三菱のビジネスビル。正式な買収日時は、1890年3月6日であり、
三菱財閥は128万円(東京市の3年分の予算である)を投じて、
東京丸ノ内の広大な敷地を政府より一括で買収した。
当時の東京都の三年分の予算に匹敵するほどの巨額な投資であった。
この時の指示も、荘田平五郎から若い岩崎弥之助にやらせたものであると言われている。
戦後の造船業を支えた「全溶接によるブロック建造技術」は
工期の劇的短縮を生んだ。
船舶建造技術の、主流をなした溶接ブロック建造技術の最大のメリットは「工数」の少なさにある。
日本造船業の技術革新のポイントは、いかにして建造方法を生産現場に組み込み、
「生産の合理化」にあった。
上記の技術により戦後復興の主力となったのが
造船業であると言えるだろう。

エネルギーの主流が石油となり、それを輸送するには大型タンカーの需要が高まった。

長崎造船所は、工期の短さで世界の需要に答えることができた。
イギリスの3分の1の工期で注文者に渡すことができたそうだ。
その速さがあったために、年間進水量世界一を15回も達成すること出来たのだろう。
そして、その現場の技術力と確かな腕を持った職人集団を育てたのが
「三菱長崎技術学校」であったことは間違いない。
※戦後復興に大きく貢献したのが、長崎の場合「水産業」「炭鉱業」そして「造船業」である。
炭鉱業は、1960年頃には既に燃料炭は、石油の影響もあり衰えの兆しを見せていた。
しかし、造船業1960年~1970年頃は絶好調であった。



