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    島民憧れの「3号棟」にお住いだった方が来館

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2022/06/08

島民憧れの「3号棟」にお住いだった方が来館

島民憧れの「3号棟」にお住いだった方が来館

島民憧れの「3号棟」にお住いだった方が来館

島民憧れの「3号棟」にお住いだった方が来館

みなさんこんにちは。

軍艦島デジタルミュージアムのガイドをしていますトシです。

いかがお過ごしでしょうか。

さて今回は、軍艦島島民あこがれの「幹部職員住宅3号棟」に

住まわれた経験を持つ古川康子さんが

お嬢様と一緒にミュージアムに来館されましたので
そのお話をしたいと思います。


トシ
一番高台にあった島民あこがれの高級住宅3号棟


康子さんは現在長崎市内にお暮らしですが、

戦時中に軍艦島でお生まれになって14歳まで3号棟で暮らされた方で

昭和32年頃までは端島におられた計算になります。

トシ
ミュージアムADききさん、康子さん、お嬢様3ショット


お父様が三菱の幹部職員で、お父様のお兄さまもお隣の島
「三菱高島炭坑」の幹部職員でいらしたそうです。


とし

3号棟といえば、軍艦島一の高級住宅であり三菱の幹部社員家族が暮らしていた建物で
部屋数も多く唯一内風呂があったというのが有名です。
他の島民は銭湯でしたから、みんな羨ましかったことでしょうね。


トシ

お隣は炭坑長のご自宅があって、(島唯一の一軒家)
炭坑長の奧さんにも可愛がってもらったそうです。

お嬢様も5歳の頃軍艦島にこられて、島から見た海の様子など
島の印象はよく覚えていられるそうです。


とし

康子様は、ミュージアムで集めた昔の写真集を見ながら
一人一人の名前まで細かく覚えていらっしゃって
若い男性のあの先生に女子が憧れていた話とか(笑)
とても懐かしく目を細めて入られました。

トシ

閉山後、日本中に散らばった仲のいいお友達とも
今でも連絡を取り合っておられるそうです。


そして昭和32年といえば、軍艦島ではたくさんのことがあった年です。

7階建「端島小中学校」が完成した年であり、
その当時、7階建の小中学校などは全国でも聞いたことがない時代です。
それだけでも軍艦島が、いかに近代的な町だったかが伺えますね。


トシ


それと同時に旧校舎が全焼するという大火がありました。
新校舎にも延焼し、
とても怖かったそうです。

とし

昭和32年全焼した旧校舎全焼の残骸を、呆然と見入る人々。

東側では島民待望の水道が、軍艦島に通水した年でもあります。

半島の岳路から6,5キロの海底数水道菅を引き、今でも世界最長の海底水道管だそうです。

ちなみにお隣の高島にも同じ時期に引きましたが、高島は今でもその海底水道を利用しています。



トシ
軍艦島周辺の海は流れも速く水深も深いので工事は難航を極めたそうです。


通水した時島民は大喜びでした。
今まで島民は小ヶ倉港からくる1日2回ないし3回来る水船を頼りに
少ない水を大切に使っていたので、その反動でその後、
長崎市内の家庭の5割増しから倍ぐらい水を消費していたそうです。
この話を裏付けるように、康子さんの話でも銭湯のお湯をザバザバ使ってたよ。
と言われていました。

また時々ミュージアムに来館してください。
その折は、島のお話をまた聞かせてくださいね。
是非お待ちしております。


それではそろそろ

次のブログでお会いしましょう。


軍艦島デジタルミュージアムトシでした。

みなさんこんにちは。

軍艦島デジタルミュージアムのガイドをしていますトシです。

いかがお過ごしでしょうか。

さて今回は、軍艦島島民あこがれの「幹部職員住宅3号棟」に

住まわれた経験を持つ古川康子さんが

お嬢様と一緒にミュージアムに来館されましたので
そのお話をしたいと思います。


トシ
一番高台にあった島民あこがれの高級住宅3号棟


康子さんは現在長崎市内にお暮らしですが、

戦時中に軍艦島でお生まれになって14歳まで3号棟で暮らされた方で

昭和32年頃までは端島におられた計算になります。

トシ
ミュージアムADききさん、康子さん、お嬢様3ショット


お父様が三菱の幹部職員で、お父様のお兄さまもお隣の島
「三菱高島炭坑」の幹部職員でいらしたそうです。


とし

3号棟といえば、軍艦島一の高級住宅であり三菱の幹部社員家族が暮らしていた建物で
部屋数も多く唯一内風呂があったというのが有名です。
他の島民は銭湯でしたから、みんな羨ましかったことでしょうね。


トシ

お隣は炭坑長のご自宅があって、(島唯一の一軒家)
炭坑長の奧さんにも可愛がってもらったそうです。

お嬢様も5歳の頃軍艦島にこられて、島から見た海の様子など
島の印象はよく覚えていられるそうです。


とし

康子様は、ミュージアムで集めた昔の写真集を見ながら
一人一人の名前まで細かく覚えていらっしゃって
若い男性のあの先生に女子が憧れていた話とか(笑)
とても懐かしく目を細めて入られました。

トシ

閉山後、日本中に散らばった仲のいいお友達とも
今でも連絡を取り合っておられるそうです。


そして昭和32年といえば、軍艦島ではたくさんのことがあった年です。

7階建「端島小中学校」が完成した年であり、
その当時、7階建の小中学校などは全国でも聞いたことがない時代です。
それだけでも軍艦島が、いかに近代的な町だったかが伺えますね。


トシ


それと同時に旧校舎が全焼するという大火がありました。
新校舎にも延焼し、
とても怖かったそうです。

とし

昭和32年全焼した旧校舎全焼の残骸を、呆然と見入る人々。

東側では島民待望の水道が、軍艦島に通水した年でもあります。

半島の岳路から6,5キロの海底数水道菅を引き、今でも世界最長の海底水道管だそうです。

ちなみにお隣の高島にも同じ時期に引きましたが、高島は今でもその海底水道を利用しています。



トシ
軍艦島周辺の海は流れも速く水深も深いので工事は難航を極めたそうです。


通水した時島民は大喜びでした。
今まで島民は小ヶ倉港からくる1日2回ないし3回来る水船を頼りに
少ない水を大切に使っていたので、その反動でその後、
長崎市内の家庭の5割増しから倍ぐらい水を消費していたそうです。
この話を裏付けるように、康子さんの話でも銭湯のお湯をザバザバ使ってたよ。
と言われていました。

また時々ミュージアムに来館してください。
その折は、島のお話をまた聞かせてくださいね。
是非お待ちしております。


それではそろそろ

次のブログでお会いしましょう。


軍艦島デジタルミュージアムトシでした。

みなさんこんにちは。

軍艦島デジタルミュージアムのガイドをしていますトシです。

いかがお過ごしでしょうか。

さて今回は、軍艦島島民あこがれの「幹部職員住宅3号棟」に

住まわれた経験を持つ古川康子さんが

お嬢様と一緒にミュージアムに来館されましたので
そのお話をしたいと思います。


トシ
一番高台にあった島民あこがれの高級住宅3号棟


康子さんは現在長崎市内にお暮らしですが、

戦時中に軍艦島でお生まれになって14歳まで3号棟で暮らされた方で

昭和32年頃までは端島におられた計算になります。

トシ
ミュージアムADききさん、康子さん、お嬢様3ショット


お父様が三菱の幹部職員で、お父様のお兄さまもお隣の島
「三菱高島炭坑」の幹部職員でいらしたそうです。


とし

3号棟といえば、軍艦島一の高級住宅であり三菱の幹部社員家族が暮らしていた建物で
部屋数も多く唯一内風呂があったというのが有名です。
他の島民は銭湯でしたから、みんな羨ましかったことでしょうね。


トシ

お隣は炭坑長のご自宅があって、(島唯一の一軒家)
炭坑長の奧さんにも可愛がってもらったそうです。

お嬢様も5歳の頃軍艦島にこられて、島から見た海の様子など
島の印象はよく覚えていられるそうです。


とし

康子様は、ミュージアムで集めた昔の写真集を見ながら
一人一人の名前まで細かく覚えていらっしゃって
若い男性のあの先生に女子が憧れていた話とか(笑)
とても懐かしく目を細めて入られました。

トシ

閉山後、日本中に散らばった仲のいいお友達とも
今でも連絡を取り合っておられるそうです。


そして昭和32年といえば、軍艦島ではたくさんのことがあった年です。

7階建「端島小中学校」が完成した年であり、
その当時、7階建の小中学校などは全国でも聞いたことがない時代です。
それだけでも軍艦島が、いかに近代的な町だったかが伺えますね。


トシ


それと同時に旧校舎が全焼するという大火がありました。
新校舎にも延焼し、
とても怖かったそうです。

とし

昭和32年全焼した旧校舎全焼の残骸を、呆然と見入る人々。

東側では島民待望の水道が、軍艦島に通水した年でもあります。

半島の岳路から6,5キロの海底数水道菅を引き、今でも世界最長の海底水道管だそうです。

ちなみにお隣の高島にも同じ時期に引きましたが、高島は今でもその海底水道を利用しています。



トシ
軍艦島周辺の海は流れも速く水深も深いので工事は難航を極めたそうです。


通水した時島民は大喜びでした。
今まで島民は小ヶ倉港からくる1日2回ないし3回来る水船を頼りに
少ない水を大切に使っていたので、その反動でその後、
長崎市内の家庭の5割増しから倍ぐらい水を消費していたそうです。
この話を裏付けるように、康子さんの話でも銭湯のお湯をザバザバ使ってたよ。
と言われていました。

また時々ミュージアムに来館してください。
その折は、島のお話をまた聞かせてくださいね。
是非お待ちしております。


それではそろそろ

次のブログでお会いしましょう。


軍艦島デジタルミュージアムトシでした。

みなさんこんにちは。

軍艦島デジタルミュージアムのガイドをしていますトシです。

いかがお過ごしでしょうか。

さて今回は、軍艦島島民あこがれの「幹部職員住宅3号棟」に

住まわれた経験を持つ古川康子さんが

お嬢様と一緒にミュージアムに来館されましたので
そのお話をしたいと思います。


トシ
一番高台にあった島民あこがれの高級住宅3号棟


康子さんは現在長崎市内にお暮らしですが、

戦時中に軍艦島でお生まれになって14歳まで3号棟で暮らされた方で

昭和32年頃までは端島におられた計算になります。

トシ
ミュージアムADききさん、康子さん、お嬢様3ショット


お父様が三菱の幹部職員で、お父様のお兄さまもお隣の島
「三菱高島炭坑」の幹部職員でいらしたそうです。


とし

3号棟といえば、軍艦島一の高級住宅であり三菱の幹部社員家族が暮らしていた建物で
部屋数も多く唯一内風呂があったというのが有名です。
他の島民は銭湯でしたから、みんな羨ましかったことでしょうね。


トシ

お隣は炭坑長のご自宅があって、(島唯一の一軒家)
炭坑長の奧さんにも可愛がってもらったそうです。

お嬢様も5歳の頃軍艦島にこられて、島から見た海の様子など
島の印象はよく覚えていられるそうです。


とし

康子様は、ミュージアムで集めた昔の写真集を見ながら
一人一人の名前まで細かく覚えていらっしゃって
若い男性のあの先生に女子が憧れていた話とか(笑)
とても懐かしく目を細めて入られました。

トシ

閉山後、日本中に散らばった仲のいいお友達とも
今でも連絡を取り合っておられるそうです。


そして昭和32年といえば、軍艦島ではたくさんのことがあった年です。

7階建「端島小中学校」が完成した年であり、
その当時、7階建の小中学校などは全国でも聞いたことがない時代です。
それだけでも軍艦島が、いかに近代的な町だったかが伺えますね。


トシ


それと同時に旧校舎が全焼するという大火がありました。
新校舎にも延焼し、
とても怖かったそうです。

とし

昭和32年全焼した旧校舎全焼の残骸を、呆然と見入る人々。

東側では島民待望の水道が、軍艦島に通水した年でもあります。

半島の岳路から6,5キロの海底数水道菅を引き、今でも世界最長の海底水道管だそうです。

ちなみにお隣の高島にも同じ時期に引きましたが、高島は今でもその海底水道を利用しています。



トシ
軍艦島周辺の海は流れも速く水深も深いので工事は難航を極めたそうです。


通水した時島民は大喜びでした。
今まで島民は小ヶ倉港からくる1日2回ないし3回来る水船を頼りに
少ない水を大切に使っていたので、その反動でその後、
長崎市内の家庭の5割増しから倍ぐらい水を消費していたそうです。
この話を裏付けるように、康子さんの話でも銭湯のお湯をザバザバ使ってたよ。
と言われていました。

また時々ミュージアムに来館してください。
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