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    木下 稔「端島への思いを綴る」

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    木下 稔「端島への思いを綴る」

2018/06/27

木下 稔「端島への思いを綴る」

木下 稔「端島への思いを綴る」

木下 稔「端島への思いを綴る」

木下 稔「端島への思いを綴る」

これから、端島に対する自分の想いや
 
ミュージアムのガイドとして出会えた

多くの元島民の先輩達や後輩達の思いを綴っていこうと思います。
 
 
私が端島を離れて半世紀が過ぎました。


私が生まれ育った端島(軍艦島)は、

2015年、世界遺産に登録されるという快挙を成し遂げました。

日本のマスコミはもちろんのこと、
 
海外メディアも端島を訪れ、取材し紹介してくれています。
 
私は、こんな素晴らしい事はないと思っています。

 
 
「世界遺産になどしないで、そっとしておいてほしかった。」

と、言う元島民がいることも事実です。

 
 
私もずっと長崎にいて、

幾度となく遠くからではありますが端島を見てきました。

ですが、私の目に映っていたのは
 
島全体が色鮮やかで賑やかだった当時の端島でした。

学校は真っ白で目が痛いほどキラキラと輝き、
 
グラウンドは子供達で溢れかえり、とにかく賑やかでした。
 
 
数年前、とあるきかっけで上陸ツアーがあることを知った私は
 
急に懐かしくなりツアーに参加しました。


それまで端島に行けることも

観光用に上陸ツアーがあることも知らなかった私は、

言わば「隠れ島民」でした。

 
半世紀ぶりに上陸した端島は、違和感だらけの印象でした。

此処はどこ?此れが端島?いや、これは端島じゃない。
 
本当にショックでした。
 

当時の面影などほとんど見ることが出来ないほど
 
荒れ果ててしまっていたからです。

幾度となく襲ってきた台風で護岸は崩され、形は変わり、

コンクリートは鉄筋がむき出しになっていました。
 
 
こんな端島は見てほしくない、いや、見せたくないと思いました。

「あれは端島ではありません」と、大声で叫びたい衝動に駆られました。
 
 
しかし、無人島になってから40年以上が経ち、
 
島全体が廃墟となり、これ以上良くなることは望めません。

 
それでは今の現状をどう維持していくかが問題です。
 
私は、建築の専門家ではないのでどの様に維持するかはわかりませんが、

願いとしては今ある建物すべてを維持してほしいと思っています。

 
特に学校は早期に対処してほしいです。

現在の見学コースをベルトコンベアー前まで伸ばすという計画がありますが、
 
学校の校庭まで伸ばしてみては如何でしょうか?

 
現在の上陸ツアーでは校舎の裏側しかみることができませんが、
 
それでは校舎の大きさを感じ取れないように思います。
 
校庭の前まで見学コースを伸ばすことができれば
 
校舎の大きさや、迫力に圧倒されるのではないでしょうか?
 
さらに、戦時中に建てられた65号棟や、端島病院、X階段も見ることができます。

 
それが実現されれば、

軍艦島が日本の近代化の象徴的存在であったことが身近に感じ取れ、

世界遺産としての魅力が増すのではないでしょうか?


 
今現在、ミュージアムガイドとして、

端島の素晴らしいところや、当時の生活ぶりを話せることが幸せです。

端島に住んでいた者だけがわかる、

端島独特の魅力を、もっと沢山の方たちに語り、

伝えていかなければならないと感じています。









木下 稔  プロフィール

1953年(昭和28年)端島生まれ

中学1年生までを端島で過ごした。

父は端島の映画館「昭和館」の映写技師。

現在は軍艦島デジタルミュージアムで

ミュージアムガイドを務めている。

これから、端島に対する自分の想いや
 
ミュージアムのガイドとして出会えた

多くの元島民の先輩達や後輩達の思いを綴っていこうと思います。
 
 
私が端島を離れて半世紀が過ぎました。


私が生まれ育った端島(軍艦島)は、

2015年、世界遺産に登録されるという快挙を成し遂げました。

日本のマスコミはもちろんのこと、
 
海外メディアも端島を訪れ、取材し紹介してくれています。
 
私は、こんな素晴らしい事はないと思っています。

 
 
「世界遺産になどしないで、そっとしておいてほしかった。」

と、言う元島民がいることも事実です。

 
 
私もずっと長崎にいて、

幾度となく遠くからではありますが端島を見てきました。

ですが、私の目に映っていたのは
 
島全体が色鮮やかで賑やかだった当時の端島でした。

学校は真っ白で目が痛いほどキラキラと輝き、
 
グラウンドは子供達で溢れかえり、とにかく賑やかでした。
 
 
数年前、とあるきかっけで上陸ツアーがあることを知った私は
 
急に懐かしくなりツアーに参加しました。


それまで端島に行けることも

観光用に上陸ツアーがあることも知らなかった私は、

言わば「隠れ島民」でした。

 
半世紀ぶりに上陸した端島は、違和感だらけの印象でした。

此処はどこ?此れが端島?いや、これは端島じゃない。
 
本当にショックでした。
 

当時の面影などほとんど見ることが出来ないほど
 
荒れ果ててしまっていたからです。

幾度となく襲ってきた台風で護岸は崩され、形は変わり、

コンクリートは鉄筋がむき出しになっていました。
 
 
こんな端島は見てほしくない、いや、見せたくないと思いました。

「あれは端島ではありません」と、大声で叫びたい衝動に駆られました。
 
 
しかし、無人島になってから40年以上が経ち、
 
島全体が廃墟となり、これ以上良くなることは望めません。

 
それでは今の現状をどう維持していくかが問題です。
 
私は、建築の専門家ではないのでどの様に維持するかはわかりませんが、

願いとしては今ある建物すべてを維持してほしいと思っています。

 
特に学校は早期に対処してほしいです。

現在の見学コースをベルトコンベアー前まで伸ばすという計画がありますが、
 
学校の校庭まで伸ばしてみては如何でしょうか?

 
現在の上陸ツアーでは校舎の裏側しかみることができませんが、
 
それでは校舎の大きさを感じ取れないように思います。
 
校庭の前まで見学コースを伸ばすことができれば
 
校舎の大きさや、迫力に圧倒されるのではないでしょうか?
 
さらに、戦時中に建てられた65号棟や、端島病院、X階段も見ることができます。

 
それが実現されれば、

軍艦島が日本の近代化の象徴的存在であったことが身近に感じ取れ、

世界遺産としての魅力が増すのではないでしょうか?


 
今現在、ミュージアムガイドとして、

端島の素晴らしいところや、当時の生活ぶりを話せることが幸せです。

端島に住んでいた者だけがわかる、

端島独特の魅力を、もっと沢山の方たちに語り、

伝えていかなければならないと感じています。









木下 稔  プロフィール

1953年(昭和28年)端島生まれ

中学1年生までを端島で過ごした。

父は端島の映画館「昭和館」の映写技師。

現在は軍艦島デジタルミュージアムで

ミュージアムガイドを務めている。

これから、端島に対する自分の想いや
 
ミュージアムのガイドとして出会えた

多くの元島民の先輩達や後輩達の思いを綴っていこうと思います。
 
 
私が端島を離れて半世紀が過ぎました。


私が生まれ育った端島(軍艦島)は、

2015年、世界遺産に登録されるという快挙を成し遂げました。

日本のマスコミはもちろんのこと、
 
海外メディアも端島を訪れ、取材し紹介してくれています。
 
私は、こんな素晴らしい事はないと思っています。

 
 
「世界遺産になどしないで、そっとしておいてほしかった。」

と、言う元島民がいることも事実です。

 
 
私もずっと長崎にいて、

幾度となく遠くからではありますが端島を見てきました。

ですが、私の目に映っていたのは
 
島全体が色鮮やかで賑やかだった当時の端島でした。

学校は真っ白で目が痛いほどキラキラと輝き、
 
グラウンドは子供達で溢れかえり、とにかく賑やかでした。
 
 
数年前、とあるきかっけで上陸ツアーがあることを知った私は
 
急に懐かしくなりツアーに参加しました。


それまで端島に行けることも

観光用に上陸ツアーがあることも知らなかった私は、

言わば「隠れ島民」でした。

 
半世紀ぶりに上陸した端島は、違和感だらけの印象でした。

此処はどこ?此れが端島?いや、これは端島じゃない。
 
本当にショックでした。
 

当時の面影などほとんど見ることが出来ないほど
 
荒れ果ててしまっていたからです。

幾度となく襲ってきた台風で護岸は崩され、形は変わり、

コンクリートは鉄筋がむき出しになっていました。
 
 
こんな端島は見てほしくない、いや、見せたくないと思いました。

「あれは端島ではありません」と、大声で叫びたい衝動に駆られました。
 
 
しかし、無人島になってから40年以上が経ち、
 
島全体が廃墟となり、これ以上良くなることは望めません。

 
それでは今の現状をどう維持していくかが問題です。
 
私は、建築の専門家ではないのでどの様に維持するかはわかりませんが、

願いとしては今ある建物すべてを維持してほしいと思っています。

 
特に学校は早期に対処してほしいです。

現在の見学コースをベルトコンベアー前まで伸ばすという計画がありますが、
 
学校の校庭まで伸ばしてみては如何でしょうか?

 
現在の上陸ツアーでは校舎の裏側しかみることができませんが、
 
それでは校舎の大きさを感じ取れないように思います。
 
校庭の前まで見学コースを伸ばすことができれば
 
校舎の大きさや、迫力に圧倒されるのではないでしょうか?
 
さらに、戦時中に建てられた65号棟や、端島病院、X階段も見ることができます。

 
それが実現されれば、

軍艦島が日本の近代化の象徴的存在であったことが身近に感じ取れ、

世界遺産としての魅力が増すのではないでしょうか?


 
今現在、ミュージアムガイドとして、

端島の素晴らしいところや、当時の生活ぶりを話せることが幸せです。

端島に住んでいた者だけがわかる、

端島独特の魅力を、もっと沢山の方たちに語り、

伝えていかなければならないと感じています。









木下 稔  プロフィール

1953年(昭和28年)端島生まれ

中学1年生までを端島で過ごした。

父は端島の映画館「昭和館」の映写技師。

現在は軍艦島デジタルミュージアムで

ミュージアムガイドを務めている。

これから、端島に対する自分の想いや
 
ミュージアムのガイドとして出会えた

多くの元島民の先輩達や後輩達の思いを綴っていこうと思います。
 
 
私が端島を離れて半世紀が過ぎました。


私が生まれ育った端島(軍艦島)は、

2015年、世界遺産に登録されるという快挙を成し遂げました。

日本のマスコミはもちろんのこと、
 
海外メディアも端島を訪れ、取材し紹介してくれています。
 
私は、こんな素晴らしい事はないと思っています。

 
 
「世界遺産になどしないで、そっとしておいてほしかった。」

と、言う元島民がいることも事実です。

 
 
私もずっと長崎にいて、

幾度となく遠くからではありますが端島を見てきました。

ですが、私の目に映っていたのは
 
島全体が色鮮やかで賑やかだった当時の端島でした。

学校は真っ白で目が痛いほどキラキラと輝き、
 
グラウンドは子供達で溢れかえり、とにかく賑やかでした。
 
 
数年前、とあるきかっけで上陸ツアーがあることを知った私は
 
急に懐かしくなりツアーに参加しました。


それまで端島に行けることも

観光用に上陸ツアーがあることも知らなかった私は、

言わば「隠れ島民」でした。

 
半世紀ぶりに上陸した端島は、違和感だらけの印象でした。

此処はどこ?此れが端島?いや、これは端島じゃない。
 
本当にショックでした。
 

当時の面影などほとんど見ることが出来ないほど
 
荒れ果ててしまっていたからです。

幾度となく襲ってきた台風で護岸は崩され、形は変わり、

コンクリートは鉄筋がむき出しになっていました。
 
 
こんな端島は見てほしくない、いや、見せたくないと思いました。

「あれは端島ではありません」と、大声で叫びたい衝動に駆られました。
 
 
しかし、無人島になってから40年以上が経ち、
 
島全体が廃墟となり、これ以上良くなることは望めません。

 
それでは今の現状をどう維持していくかが問題です。
 
私は、建築の専門家ではないのでどの様に維持するかはわかりませんが、

願いとしては今ある建物すべてを維持してほしいと思っています。

 
特に学校は早期に対処してほしいです。

現在の見学コースをベルトコンベアー前まで伸ばすという計画がありますが、
 
学校の校庭まで伸ばしてみては如何でしょうか?

 
現在の上陸ツアーでは校舎の裏側しかみることができませんが、
 
それでは校舎の大きさを感じ取れないように思います。
 
校庭の前まで見学コースを伸ばすことができれば
 
校舎の大きさや、迫力に圧倒されるのではないでしょうか?
 
さらに、戦時中に建てられた65号棟や、端島病院、X階段も見ることができます。

 
それが実現されれば、

軍艦島が日本の近代化の象徴的存在であったことが身近に感じ取れ、

世界遺産としての魅力が増すのではないでしょうか?


 
今現在、ミュージアムガイドとして、

端島の素晴らしいところや、当時の生活ぶりを話せることが幸せです。

端島に住んでいた者だけがわかる、

端島独特の魅力を、もっと沢山の方たちに語り、

伝えていかなければならないと感じています。









木下 稔  プロフィール

1953年(昭和28年)端島生まれ

中学1年生までを端島で過ごした。

父は端島の映画館「昭和館」の映写技師。

現在は軍艦島デジタルミュージアムで

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