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「軍艦島閉山の理由」メディア上でよくある間違い
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2023/10/25
「軍艦島閉山の理由」メディア上でよくある間違い
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「軍艦島閉山の理由」メディア上でよくある間違い
「軍艦島閉山の理由」メディア上でよくある間違い
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムのガイドしておりますトシです。
皆さんお元気でお過ごしでしょうか
今回は軍艦島の歴史において、とても大切なお話をしたいと思います。

軍艦島閉山の本当の理由
真相は
「安全に採炭し得る石炭が枯渇し、採炭可能な石炭は全て取り尽くし閉山」 これが本当の理由です。
事実と異なる文章は「軍艦島は石炭から石油へと、政府のエネルギー政策転換のあおりを受け閉山を余儀なくされた。」
これは間違いです。

昭和33年当時の石炭業界は、全盛期は過ぎたといえ、
石油の進出に対抗すべくスクラップ&ビルドの合理化を推進中でした。
三菱鉱業の場合、九州ではビルド鉱として積極的な設備投資の真最中でした、
そして筑豊地区のスクラップ鉱の配転従業員の受け皿になっていました。
筑豊炭鉱が生活に使う燃料用の一般炭だったのに対し、高島や端島の石炭は高カロリーの原料炭で、
石油に対抗できる商品でした。特に端島炭(軍艦島炭)は売れ筋のブランド品でした。
この頃三菱の炭鉱技術者達は現在掘り進んでいるメイン坑道が海面下―1000mに深部化するに連れて、
安全性においても、採炭量においても、やがて行き詰まることを予想していました。
そのため、1955年頃より新しい可採区域かさいくいきを見つけるべく海底調査を行なっていました。
そして、1964年8月のガス吐出火災事故の前から、新しい可採区域の候補として
1961年4月より三瀬区域へ向かって南西方向に掘進を開始しました。


その後、1964年ガス吐出火災が起き、メイン坑道深部を水没させたことにより、
三瀬区域への掘進は急ピッチで行われ1965年2月にようやく着炭しました。
しかし三ツ瀬地区の炭層は左右の両翼を断層によって切断されたような形にあり、
あらかじめ炭鉱の寿命は10年足らずと予測されていました。
そのため今後の事業を続けるためには新しい可採区域を探す必要がありました。

軍艦島の採炭方法は「長壁採炭法」【傾斜のきつい70m位の長い炭壁を8〜10人でいっせいに掘っていく採炭法】
ですので狭い場所は構造上ありません。

石炭を運んだスキップ 傾斜がきついので上がる時は引きあげる
三菱は1968年より端島沖探炭坑道(たんたんこうどう)を海面下―600mレベルから西へと掘進を始めました。しかし坑道を掘り進む途中で断層破砕帯に接触、大量に出水してしまいました。(破砕帯とは断層に挟まれ細かく砕けた石の層、大量の水を含むことが多い)加えて、
各調査結果は炭層の位置が当初の予想よりさらに深く、海面下―1000mレベルと判明し、
端島沖区域開発を断念しました。三菱は1970年3月に組合員全員にその旨を発表しました。
組合側も独自の調査を行いましたが結果は同じで組合側も納得をしました。
昭和48年9月三ツ瀬地区の採炭切羽が海面下-120mに近づくとともに「安全に採炭し得る炭量が枯渇し、鉱命が尽きたと判断」
昭和49年1月15日 組合員全員の同意を得て端島炭坑は閉山しました。
故に端島炭鉱閉山理由は海外の石油との価格競争などの外部要因(※)ではなく、
「安全に採炭し得る石炭が枯渇し、採炭可能な石炭は全て取り尽くし閉山」からなのです。
※端島の石炭は100%が良質の原料炭(製鉄用石炭コークス)なので石油との価格競争は関係ありません。
また、輸入原料炭との競争にも負けることもなく最後まで黒字操業を続けたままの閉山でした。
このように労使ともに納得の上に閉山を迎えたことは端島炭坑関係者の誇りでもあったと確信しております。
尚、このブログを作るにあたり、元高島炭鉱副所長 端島炭鉱技術者坑内勤務の経験者でもある
田中實夫様に多大なるご協力をいただきました。誠にありがとうございました。
これからも真実の軍艦島のお話をシリーズでお話したいと思っています。
それでは、そろそろ
次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアムガイドのトシでした。
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムのガイドしておりますトシです。
皆さんお元気でお過ごしでしょうか
今回は軍艦島の歴史において、とても大切なお話をしたいと思います。

軍艦島閉山の本当の理由
真相は
「安全に採炭し得る石炭が枯渇し、採炭可能な石炭は全て取り尽くし閉山」 これが本当の理由です。
事実と異なる文章は「軍艦島は石炭から石油へと、政府のエネルギー政策転換のあおりを受け閉山を余儀なくされた。」
これは間違いです。

昭和33年当時の石炭業界は、全盛期は過ぎたといえ、
石油の進出に対抗すべくスクラップ&ビルドの合理化を推進中でした。
三菱鉱業の場合、九州ではビルド鉱として積極的な設備投資の真最中でした、
そして筑豊地区のスクラップ鉱の配転従業員の受け皿になっていました。
筑豊炭鉱が生活に使う燃料用の一般炭だったのに対し、高島や端島の石炭は高カロリーの原料炭で、
石油に対抗できる商品でした。特に端島炭(軍艦島炭)は売れ筋のブランド品でした。
この頃三菱の炭鉱技術者達は現在掘り進んでいるメイン坑道が海面下―1000mに深部化するに連れて、
安全性においても、採炭量においても、やがて行き詰まることを予想していました。
そのため、1955年頃より新しい可採区域かさいくいきを見つけるべく海底調査を行なっていました。
そして、1964年8月のガス吐出火災事故の前から、新しい可採区域の候補として
1961年4月より三瀬区域へ向かって南西方向に掘進を開始しました。


その後、1964年ガス吐出火災が起き、メイン坑道深部を水没させたことにより、
三瀬区域への掘進は急ピッチで行われ1965年2月にようやく着炭しました。
しかし三ツ瀬地区の炭層は左右の両翼を断層によって切断されたような形にあり、
あらかじめ炭鉱の寿命は10年足らずと予測されていました。
そのため今後の事業を続けるためには新しい可採区域を探す必要がありました。

軍艦島の採炭方法は「長壁採炭法」【傾斜のきつい70m位の長い炭壁を8〜10人でいっせいに掘っていく採炭法】
ですので狭い場所は構造上ありません。

石炭を運んだスキップ 傾斜がきついので上がる時は引きあげる
三菱は1968年より端島沖探炭坑道(たんたんこうどう)を海面下―600mレベルから西へと掘進を始めました。しかし坑道を掘り進む途中で断層破砕帯に接触、大量に出水してしまいました。(破砕帯とは断層に挟まれ細かく砕けた石の層、大量の水を含むことが多い)加えて、
各調査結果は炭層の位置が当初の予想よりさらに深く、海面下―1000mレベルと判明し、
端島沖区域開発を断念しました。三菱は1970年3月に組合員全員にその旨を発表しました。
組合側も独自の調査を行いましたが結果は同じで組合側も納得をしました。
昭和48年9月三ツ瀬地区の採炭切羽が海面下-120mに近づくとともに「安全に採炭し得る炭量が枯渇し、鉱命が尽きたと判断」
昭和49年1月15日 組合員全員の同意を得て端島炭坑は閉山しました。
故に端島炭鉱閉山理由は海外の石油との価格競争などの外部要因(※)ではなく、
「安全に採炭し得る石炭が枯渇し、採炭可能な石炭は全て取り尽くし閉山」からなのです。
※端島の石炭は100%が良質の原料炭(製鉄用石炭コークス)なので石油との価格競争は関係ありません。
また、輸入原料炭との競争にも負けることもなく最後まで黒字操業を続けたままの閉山でした。
このように労使ともに納得の上に閉山を迎えたことは端島炭坑関係者の誇りでもあったと確信しております。
尚、このブログを作るにあたり、元高島炭鉱副所長 端島炭鉱技術者坑内勤務の経験者でもある
田中實夫様に多大なるご協力をいただきました。誠にありがとうございました。
これからも真実の軍艦島のお話をシリーズでお話したいと思っています。
それでは、そろそろ
次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアムガイドのトシでした。
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムのガイドしておりますトシです。
皆さんお元気でお過ごしでしょうか
今回は軍艦島の歴史において、とても大切なお話をしたいと思います。

軍艦島閉山の本当の理由
真相は
「安全に採炭し得る石炭が枯渇し、採炭可能な石炭は全て取り尽くし閉山」 これが本当の理由です。
事実と異なる文章は「軍艦島は石炭から石油へと、政府のエネルギー政策転換のあおりを受け閉山を余儀なくされた。」
これは間違いです。

昭和33年当時の石炭業界は、全盛期は過ぎたといえ、
石油の進出に対抗すべくスクラップ&ビルドの合理化を推進中でした。
三菱鉱業の場合、九州ではビルド鉱として積極的な設備投資の真最中でした、
そして筑豊地区のスクラップ鉱の配転従業員の受け皿になっていました。
筑豊炭鉱が生活に使う燃料用の一般炭だったのに対し、高島や端島の石炭は高カロリーの原料炭で、
石油に対抗できる商品でした。特に端島炭(軍艦島炭)は売れ筋のブランド品でした。
この頃三菱の炭鉱技術者達は現在掘り進んでいるメイン坑道が海面下―1000mに深部化するに連れて、
安全性においても、採炭量においても、やがて行き詰まることを予想していました。
そのため、1955年頃より新しい可採区域かさいくいきを見つけるべく海底調査を行なっていました。
そして、1964年8月のガス吐出火災事故の前から、新しい可採区域の候補として
1961年4月より三瀬区域へ向かって南西方向に掘進を開始しました。


その後、1964年ガス吐出火災が起き、メイン坑道深部を水没させたことにより、
三瀬区域への掘進は急ピッチで行われ1965年2月にようやく着炭しました。
しかし三ツ瀬地区の炭層は左右の両翼を断層によって切断されたような形にあり、
あらかじめ炭鉱の寿命は10年足らずと予測されていました。
そのため今後の事業を続けるためには新しい可採区域を探す必要がありました。

軍艦島の採炭方法は「長壁採炭法」【傾斜のきつい70m位の長い炭壁を8〜10人でいっせいに掘っていく採炭法】
ですので狭い場所は構造上ありません。

石炭を運んだスキップ 傾斜がきついので上がる時は引きあげる
三菱は1968年より端島沖探炭坑道(たんたんこうどう)を海面下―600mレベルから西へと掘進を始めました。しかし坑道を掘り進む途中で断層破砕帯に接触、大量に出水してしまいました。(破砕帯とは断層に挟まれ細かく砕けた石の層、大量の水を含むことが多い)加えて、
各調査結果は炭層の位置が当初の予想よりさらに深く、海面下―1000mレベルと判明し、
端島沖区域開発を断念しました。三菱は1970年3月に組合員全員にその旨を発表しました。
組合側も独自の調査を行いましたが結果は同じで組合側も納得をしました。
昭和48年9月三ツ瀬地区の採炭切羽が海面下-120mに近づくとともに「安全に採炭し得る炭量が枯渇し、鉱命が尽きたと判断」
昭和49年1月15日 組合員全員の同意を得て端島炭坑は閉山しました。
故に端島炭鉱閉山理由は海外の石油との価格競争などの外部要因(※)ではなく、
「安全に採炭し得る石炭が枯渇し、採炭可能な石炭は全て取り尽くし閉山」からなのです。
※端島の石炭は100%が良質の原料炭(製鉄用石炭コークス)なので石油との価格競争は関係ありません。
また、輸入原料炭との競争にも負けることもなく最後まで黒字操業を続けたままの閉山でした。
このように労使ともに納得の上に閉山を迎えたことは端島炭坑関係者の誇りでもあったと確信しております。
尚、このブログを作るにあたり、元高島炭鉱副所長 端島炭鉱技術者坑内勤務の経験者でもある
田中實夫様に多大なるご協力をいただきました。誠にありがとうございました。
これからも真実の軍艦島のお話をシリーズでお話したいと思っています。
それでは、そろそろ
次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアムガイドのトシでした。
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムのガイドしておりますトシです。
皆さんお元気でお過ごしでしょうか
今回は軍艦島の歴史において、とても大切なお話をしたいと思います。

軍艦島閉山の本当の理由
真相は
「安全に採炭し得る石炭が枯渇し、採炭可能な石炭は全て取り尽くし閉山」 これが本当の理由です。
事実と異なる文章は「軍艦島は石炭から石油へと、政府のエネルギー政策転換のあおりを受け閉山を余儀なくされた。」
これは間違いです。

昭和33年当時の石炭業界は、全盛期は過ぎたといえ、
石油の進出に対抗すべくスクラップ&ビルドの合理化を推進中でした。
三菱鉱業の場合、九州ではビルド鉱として積極的な設備投資の真最中でした、
そして筑豊地区のスクラップ鉱の配転従業員の受け皿になっていました。
筑豊炭鉱が生活に使う燃料用の一般炭だったのに対し、高島や端島の石炭は高カロリーの原料炭で、
石油に対抗できる商品でした。特に端島炭(軍艦島炭)は売れ筋のブランド品でした。
この頃三菱の炭鉱技術者達は現在掘り進んでいるメイン坑道が海面下―1000mに深部化するに連れて、
安全性においても、採炭量においても、やがて行き詰まることを予想していました。
そのため、1955年頃より新しい可採区域かさいくいきを見つけるべく海底調査を行なっていました。
そして、1964年8月のガス吐出火災事故の前から、新しい可採区域の候補として
1961年4月より三瀬区域へ向かって南西方向に掘進を開始しました。


その後、1964年ガス吐出火災が起き、メイン坑道深部を水没させたことにより、
三瀬区域への掘進は急ピッチで行われ1965年2月にようやく着炭しました。
しかし三ツ瀬地区の炭層は左右の両翼を断層によって切断されたような形にあり、
あらかじめ炭鉱の寿命は10年足らずと予測されていました。
そのため今後の事業を続けるためには新しい可採区域を探す必要がありました。

軍艦島の採炭方法は「長壁採炭法」【傾斜のきつい70m位の長い炭壁を8〜10人でいっせいに掘っていく採炭法】
ですので狭い場所は構造上ありません。

石炭を運んだスキップ 傾斜がきついので上がる時は引きあげる
三菱は1968年より端島沖探炭坑道(たんたんこうどう)を海面下―600mレベルから西へと掘進を始めました。しかし坑道を掘り進む途中で断層破砕帯に接触、大量に出水してしまいました。(破砕帯とは断層に挟まれ細かく砕けた石の層、大量の水を含むことが多い)加えて、
各調査結果は炭層の位置が当初の予想よりさらに深く、海面下―1000mレベルと判明し、
端島沖区域開発を断念しました。三菱は1970年3月に組合員全員にその旨を発表しました。
組合側も独自の調査を行いましたが結果は同じで組合側も納得をしました。
昭和48年9月三ツ瀬地区の採炭切羽が海面下-120mに近づくとともに「安全に採炭し得る炭量が枯渇し、鉱命が尽きたと判断」
昭和49年1月15日 組合員全員の同意を得て端島炭坑は閉山しました。
故に端島炭鉱閉山理由は海外の石油との価格競争などの外部要因(※)ではなく、
「安全に採炭し得る石炭が枯渇し、採炭可能な石炭は全て取り尽くし閉山」からなのです。
※端島の石炭は100%が良質の原料炭(製鉄用石炭コークス)なので石油との価格競争は関係ありません。
また、輸入原料炭との競争にも負けることもなく最後まで黒字操業を続けたままの閉山でした。