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軍艦島の開発に挑んだ天草の小山秀之進と兄の北野織部の物語
軍艦島の開発に挑んだ天草の小山秀之進と兄の北野織部の物語
軍艦島の開発に挑んだ天草の小山秀之進と兄の北野織部の物語
軍艦島の開発に挑んだ天草の小山秀之進と兄の北野織部の物語
2024/02/14
軍艦島の開発に挑んだ天草の小山秀之進と兄の北野織部の物語
軍艦島の開発に挑んだ天草の小山秀之進と兄の北野織部の物語
軍艦島の開発に挑んだ天草の小山秀之進と兄の北野織部の物語
軍艦島の開発に挑んだ天草の小山秀之進と兄の北野織部の物語
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムの近代史担当トシです。
今回は軍艦島の開発に挑戦した天草の建築技術者「小山秀之進」と大浦地区港湾開発事業を請け負ったデベロッパーの北野綾部のお話をしたいと思います。
安政5年(1858)、西欧五カ国と修好通商条約が結ばれると、翌年、長崎は自由貿易港として開港。
同時に大浦海岸一帯の埋め立て計画を立ち上がり、大規模な港湾開発事業を請け負ったのが小山秀之進の実兄・北野織部(きたのおりべ)
小山家でも、織部をバックアップするため長崎に「国民社【くにたみしゃ】・小山兄弟商会」を設立し、国際港・長崎の開発事業に参画した。
「国民社・小山兄弟商会」は、織部の実績により土木業界での地位を確立。
秀之進も若手棟梁として才覚を発揮し、長崎港から見上げる長崎市南山手町に旧グラバー住宅、旧オルト住宅、旧リンガー住宅の洋館を次々と手がけ。
そして国内現存最古の教会・大浦天主堂 西洋建築を手がけました。
それと同時進行で対岸の飽ノ浦では干拓の国オランダ技師ハルデスの指導により海岸の埋め立てや波止場築造工事が進められていた。
(後の三菱造船所)
※大事な部分は天草の石が使用されましたが、
加工が難しくない部分は伊王島の砂岩なども使われました。
c・m・ウィリアムズ宣教師館周辺外国人居留地 彼はのちに立教大学を創立しました。
小山秀之進と北野織部は苗字が違いますが、本当の兄弟です。
織部は1818年小山家から9歳の頃に赤崎村庄屋北野記十郎の家に養子入りしました。
現在の活水大学に続くオランダ坂
外国人居留地の石畳
明治元年(1968)、居留地の建設も一応終わり、トーマス・ブレーク・グラバーの誘いを受けて高島炭鉱(長崎県)の管理経営に乗り出した。
しかし、グラバーも倒産し、高島炭鉱は国営化されることとなり撤退。次は端島炭坑(軍艦島)開発に活路を見い出しました。
しかし、不運にも大きな台風に見舞われ水没し失敗に終わり、膨大な借金を負い失意のうちに故郷天草に帰ることとなりました。
天川護岸に立つ島民
小山秀之進は軍艦島の開発には成功しませんでしたが、後に明治時代に作られた護岸が世界遺産に登録されることとなりました。
昭和31年台風9号で出現した明治時代に作られた天川護岸
1880年オランダ人水理工師ローエンホルスト。ムルドル設計
小山秀の率いる天草石工達による石炭積出港三角西港1884年完成
小山秀の最後の大事業となったのですが、なんとここも「明治の産業革命遺産」に選ばれました。
※ 石の街長崎
外国人居留地造成の際、利用されたのが「天草石」と呼ばれる天草産の様々な石。
造成工事を天草人が請け負ったことから資材も天草産のものが多く使われたのだという。
なかでも本渡市下浦産の砂岩が石畳用に使われたそうです。
天草と長崎は距離的にも近いので出稼ぎに来た天草人も多くいました。
大浦の外国人居留地の石にも深い歴史があるのですね。
それでは、そろそろ
次のブログでまたお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム ガイドの トシでした。
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムの近代史担当トシです。
今回は軍艦島の開発に挑戦した天草の建築技術者「小山秀之進」と大浦地区港湾開発事業を請け負ったデベロッパーの北野綾部のお話をしたいと思います。
安政5年(1858)、西欧五カ国と修好通商条約が結ばれると、翌年、長崎は自由貿易港として開港。
同時に大浦海岸一帯の埋め立て計画を立ち上がり、大規模な港湾開発事業を請け負ったのが小山秀之進の実兄・北野織部(きたのおりべ)
小山家でも、織部をバックアップするため長崎に「国民社【くにたみしゃ】・小山兄弟商会」を設立し、国際港・長崎の開発事業に参画した。
「国民社・小山兄弟商会」は、織部の実績により土木業界での地位を確立。
秀之進も若手棟梁として才覚を発揮し、長崎港から見上げる長崎市南山手町に旧グラバー住宅、旧オルト住宅、旧リンガー住宅の洋館を次々と手がけ。
そして国内現存最古の教会・大浦天主堂 西洋建築を手がけました。
それと同時進行で対岸の飽ノ浦では干拓の国オランダ技師ハルデスの指導により海岸の埋め立てや波止場築造工事が進められていた。
(後の三菱造船所)
※大事な部分は天草の石が使用されましたが、
加工が難しくない部分は伊王島の砂岩なども使われました。
c・m・ウィリアムズ宣教師館周辺外国人居留地 彼はのちに立教大学を創立しました。
小山秀之進と北野織部は苗字が違いますが、本当の兄弟です。
織部は1818年小山家から9歳の頃に赤崎村庄屋北野記十郎の家に養子入りしました。
現在の活水大学に続くオランダ坂
外国人居留地の石畳
明治元年(1968)、居留地の建設も一応終わり、トーマス・ブレーク・グラバーの誘いを受けて高島炭鉱(長崎県)の管理経営に乗り出した。
しかし、グラバーも倒産し、高島炭鉱は国営化されることとなり撤退。次は端島炭坑(軍艦島)開発に活路を見い出しました。
しかし、不運にも大きな台風に見舞われ水没し失敗に終わり、膨大な借金を負い失意のうちに故郷天草に帰ることとなりました。
天川護岸に立つ島民
小山秀之進は軍艦島の開発には成功しませんでしたが、後に明治時代に作られた護岸が世界遺産に登録されることとなりました。
昭和31年台風9号で出現した明治時代に作られた天川護岸
1880年オランダ人水理工師ローエンホルスト。ムルドル設計
小山秀の率いる天草石工達による石炭積出港三角西港1884年完成
小山秀の最後の大事業となったのですが、なんとここも「明治の産業革命遺産」に選ばれました。
※ 石の街長崎
外国人居留地造成の際、利用されたのが「天草石」と呼ばれる天草産の様々な石。
造成工事を天草人が請け負ったことから資材も天草産のものが多く使われたのだという。
なかでも本渡市下浦産の砂岩が石畳用に使われたそうです。
天草と長崎は距離的にも近いので出稼ぎに来た天草人も多くいました。
大浦の外国人居留地の石にも深い歴史があるのですね。
それでは、そろそろ
次のブログでまたお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム ガイドの トシでした。
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムの近代史担当トシです。
今回は軍艦島の開発に挑戦した天草の建築技術者「小山秀之進」と大浦地区港湾開発事業を請け負ったデベロッパーの北野綾部のお話をしたいと思います。
安政5年(1858)、西欧五カ国と修好通商条約が結ばれると、翌年、長崎は自由貿易港として開港。
同時に大浦海岸一帯の埋め立て計画を立ち上がり、大規模な港湾開発事業を請け負ったのが小山秀之進の実兄・北野織部(きたのおりべ)
小山家でも、織部をバックアップするため長崎に「国民社【くにたみしゃ】・小山兄弟商会」を設立し、国際港・長崎の開発事業に参画した。
「国民社・小山兄弟商会」は、織部の実績により土木業界での地位を確立。
秀之進も若手棟梁として才覚を発揮し、長崎港から見上げる長崎市南山手町に旧グラバー住宅、旧オルト住宅、旧リンガー住宅の洋館を次々と手がけ。
そして国内現存最古の教会・大浦天主堂 西洋建築を手がけました。
それと同時進行で対岸の飽ノ浦では干拓の国オランダ技師ハルデスの指導により海岸の埋め立てや波止場築造工事が進められていた。
(後の三菱造船所)
※大事な部分は天草の石が使用されましたが、
加工が難しくない部分は伊王島の砂岩なども使われました。
c・m・ウィリアムズ宣教師館周辺外国人居留地 彼はのちに立教大学を創立しました。
小山秀之進と北野織部は苗字が違いますが、本当の兄弟です。
織部は1818年小山家から9歳の頃に赤崎村庄屋北野記十郎の家に養子入りしました。
現在の活水大学に続くオランダ坂
外国人居留地の石畳
明治元年(1968)、居留地の建設も一応終わり、トーマス・ブレーク・グラバーの誘いを受けて高島炭鉱(長崎県)の管理経営に乗り出した。
しかし、グラバーも倒産し、高島炭鉱は国営化されることとなり撤退。次は端島炭坑(軍艦島)開発に活路を見い出しました。
しかし、不運にも大きな台風に見舞われ水没し失敗に終わり、膨大な借金を負い失意のうちに故郷天草に帰ることとなりました。
天川護岸に立つ島民
小山秀之進は軍艦島の開発には成功しませんでしたが、後に明治時代に作られた護岸が世界遺産に登録されることとなりました。
昭和31年台風9号で出現した明治時代に作られた天川護岸
1880年オランダ人水理工師ローエンホルスト。ムルドル設計
小山秀の率いる天草石工達による石炭積出港三角西港1884年完成
小山秀の最後の大事業となったのですが、なんとここも「明治の産業革命遺産」に選ばれました。
※ 石の街長崎
外国人居留地造成の際、利用されたのが「天草石」と呼ばれる天草産の様々な石。
造成工事を天草人が請け負ったことから資材も天草産のものが多く使われたのだという。
なかでも本渡市下浦産の砂岩が石畳用に使われたそうです。
天草と長崎は距離的にも近いので出稼ぎに来た天草人も多くいました。
大浦の外国人居留地の石にも深い歴史があるのですね。
それでは、そろそろ
次のブログでまたお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム ガイドの トシでした。
こんにちは
軍艦島デジタルミュージアムの近代史担当トシです。
今回は軍艦島の開発に挑戦した天草の建築技術者「小山秀之進」と大浦地区港湾開発事業を請け負ったデベロッパーの北野綾部のお話をしたいと思います。
安政5年(1858)、西欧五カ国と修好通商条約が結ばれると、翌年、長崎は自由貿易港として開港。
同時に大浦海岸一帯の埋め立て計画を立ち上がり、大規模な港湾開発事業を請け負ったのが小山秀之進の実兄・北野織部(きたのおりべ)
小山家でも、織部をバックアップするため長崎に「国民社【くにたみしゃ】・小山兄弟商会」を設立し、国際港・長崎の開発事業に参画した。
「国民社・小山兄弟商会」は、織部の実績により土木業界での地位を確立。
秀之進も若手棟梁として才覚を発揮し、長崎港から見上げる長崎市南山手町に旧グラバー住宅、旧オルト住宅、旧リンガー住宅の洋館を次々と手がけ。
そして国内現存最古の教会・大浦天主堂 西洋建築を手がけました。
それと同時進行で対岸の飽ノ浦では干拓の国オランダ技師ハルデスの指導により海岸の埋め立てや波止場築造工事が進められていた。
(後の三菱造船所)
※大事な部分は天草の石が使用されましたが、
加工が難しくない部分は伊王島の砂岩なども使われました。
c・m・ウィリアムズ宣教師館周辺外国人居留地 彼はのちに立教大学を創立しました。
小山秀之進と北野織部は苗字が違いますが、本当の兄弟です。
織部は1818年小山家から9歳の頃に赤崎村庄屋北野記十郎の家に養子入りしました。
現在の活水大学に続くオランダ坂
外国人居留地の石畳
明治元年(1968)、居留地の建設も一応終わり、トーマス・ブレーク・グラバーの誘いを受けて高島炭鉱(長崎県)の管理経営に乗り出した。
しかし、グラバーも倒産し、高島炭鉱は国営化されることとなり撤退。次は端島炭坑(軍艦島)開発に活路を見い出しました。
しかし、不運にも大きな台風に見舞われ水没し失敗に終わり、膨大な借金を負い失意のうちに故郷天草に帰ることとなりました。
天川護岸に立つ島民
小山秀之進は軍艦島の開発には成功しませんでしたが、後に明治時代に作られた護岸が世界遺産に登録されることとなりました。
昭和31年台風9号で出現した明治時代に作られた天川護岸
1880年オランダ人水理工師ローエンホルスト。ムルドル設計
小山秀の率いる天草石工達による石炭積出港三角西港1884年完成
小山秀の最後の大事業となったのですが、なんとここも「明治の産業革命遺産」に選ばれました。
※ 石の街長崎
外国人居留地造成の際、利用されたのが「天草石」と呼ばれる天草産の様々な石。
造成工事を天草人が請け負ったことから資材も天草産のものが多く使われたのだという。
なかでも本渡市下浦産の砂岩が石畳用に使われたそうです。
天草と長崎は距離的にも近いので出稼ぎに来た天草人も多くいました。
大浦の外国人居留地の石にも深い歴史があるのですね。
それでは、そろそろ
次のブログでまたお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム ガイドの トシでした。