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  • 軍艦島も三池炭鉱も出水との戦いでした。

    軍艦島も三池炭鉱も出水との戦いでした。

    軍艦島も三池炭鉱も出水との戦いでした。

    軍艦島も三池炭鉱も出水との戦いでした。

2024/04/10

軍艦島も三池炭鉱も出水との戦いでした。

軍艦島も三池炭鉱も出水との戦いでした。

軍艦島も三池炭鉱も出水との戦いでした。

軍艦島も三池炭鉱も出水との戦いでした。

みなさん こんにちは。

軍艦島デジタルミュージアムの近代史担当トシです。

今回は海底炭鉱の宿命「湧水」

炭鉱技術者たちの「水との戦い」をテーマにお話を進めたいと思います。



「端島炭坑三瀬地区出水対策」

三瀬地区の炭層はでは浅部に近づくとともに出水が多くなり

三瀬からの石炭は、海水との分離に苦心しました。

三瀬地区から2.345Kmをドロドロの混ざった第四竪坑で運ばれた。


「坑内排水問題」

総排水量はピーク時 三瀬地区から8t  端島沖炭坑道から6t  その他6t

合計20tにも及んだ。

2000kwのタービンポンプが必要。

高島炭鉱の二子立坑用から流用ピークを凌ぐ。


「石炭分離問題」

三瀬からの石炭は、湧水と一緒にH型コンベヤーで運ばれた。

○そのH型コンベアーに水抜きトラフを入れ込んで分離回収した。

○本坑道と連絡行動の間に沈殿パック設置して回収。

○端島の第四立坑下に固定スクリーン設置、水中ポンプで回収。

この一連の作業により三瀬地区で取れた石炭を、冗談で「工作出炭」と言っていた。

この三瀬地区の採炭は炭層が薄かったので、採炭切羽が120mに近づくに及び、

安全性も担保できなくなり炭量が枯渇したと判断

端島炭坑は黒字の状態で閉山を迎えた。



上記の内容は元炭鉱技術者、
田中實夫さまに多大なる御協力を頂き作成したものです。

田中實夫さん 
高島炭鉱副所長
端島炭坑三瀬地区総責任者


3片坑道を少し歩くと坑道の横に二坑底二抗低ポンプ座があり、
225キロワットのポンプ4台が設置されていました。

海底炭鉱のため、構内湧水は常にありました。

すべての坑内水をここに集めて、
四抗底ポンプ座藻で集めて更に800馬力ポンプを運転し
四坑内にある排水管を通して海に排出していました。

(私の軍艦島より 加地英夫さん)



「福岡、熊本 荒尾大牟田三井三池炭鉱出水対策」

明治時代に建設されたデビーポンプ室の煉瓦壁です。
煉瓦造り3階建の建物で、
英国デビー社製のポンプが4基設置され、坑内排水を行っていました。

トシ


tosi

その後、動力が蒸気から電気に本格的に以降するのを受けて、

1931(昭和6)年に運転を停止し、建物を変電所として利用しました。


tosi
当時、絵葉書にをなったデービーポンプ

tosi


トシ
宮原坑のパイプも残っています。

トシ

そもそも宮原坑は、地下水を汲み上げて排出することを主な目的として設置された坑口です。
地下で行われる石炭採掘において、大量の湧水は難敵。
三池炭鉱は地下水が特に多く開発に苦労していたが、
イギリス製のデビーポンプという当時最新鋭で、非常に高価な排水ポンプを導入して克服した。

デビーポンプは1893年、勝立坑に最初導入された。
当時世界最大の排水ポンプで、宮原坑は勝立坑についでデビーポンプが設置された坑口であり、
宮原坑第二立坑櫓の脇にれんが塀のように残っている建物遺構は、
かつてデビーポンプ室の一部です。
汲み出された地下水を排出していた水路もよく残っています。

大牟田・荒尾地区は日本有数の石炭の一大産炭地でした。
当初は湧水により採掘が進みませんでしたが、
指揮を執った「團琢磨」が当時世界最新鋭であった英国製の排水ポンプ「デビーポンプ」
を導入し排水が可能となったため、日本の近代化を牽引する炭鉱として成長を遂げました。
「三池炭鉱」の宮原坑・万田坑・専用鉄道敷跡は、
2015(平成27)年に世界文化遺産登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産です。


トシ

巻上げ機操作室




トシ
巨大な立坑巻上げ機

tosi

巻上げ機のブレーキもありました

トシ
万田抗立坑

トシ




トシ
「三川坑斜坑跡」

1933年(昭和8年)宮浦 万田 四山に次ぐ有明海の下を採掘するため
大牟田市西港から有明海下を傾斜11度、長さ2000メーター斜坑
2本を、
震度350レベルを基準抗抵として四山坑共に連結させました。



トシ

昭和59年 西原駅に停車中の炭鉱列車

トシ
今も残る三池炭鉱専用鉄道敷地跡

トシ
石炭専用列車運転席

トシ
炭鉱専用電車


トシとし

大牟田市石炭産業科学館           企画担当  長 さん




とし

自走枠とドラムカッターの組み合わせで

ドラムカッターの横には払いコンベアーが付いていて、採炭した石炭を後ろに運びます。

1日に1万トン以上の石炭を
掘り出すことが可能になりました。

トシ

水圧式鉄柱と天板かっぺの組み合わせで行動の安全を図りながら前に進んでいく。
「かっぺ採炭方」「長壁採炭方」などが採用された。

水圧鉄柱とカッペで坑道を押えるようになり効率が良くなったが

自重が増すと薄い層でも自走式枠が必要となり色んなタイプの

自走枠が作られて行くこととなった。(大牟田市石炭産業科学館より)



それでは、そろそろ 次のブログでお会いしましょう。

次回も軍艦島をはじめとする明治の炭鉱の歴史など

紹介していきたいと思います。

軍艦島デジタルミュージアム

近代史担当、政次【まさつぐ】でした。


みなさん こんにちは。

軍艦島デジタルミュージアムの近代史担当トシです。

今回は海底炭鉱の宿命「湧水」

炭鉱技術者たちの「水との戦い」をテーマにお話を進めたいと思います。



「端島炭坑三瀬地区出水対策」

三瀬地区の炭層はでは浅部に近づくとともに出水が多くなり

三瀬からの石炭は、海水との分離に苦心しました。

三瀬地区から2.345Kmをドロドロの混ざった第四竪坑で運ばれた。


「坑内排水問題」

総排水量はピーク時 三瀬地区から8t  端島沖炭坑道から6t  その他6t

合計20tにも及んだ。

2000kwのタービンポンプが必要。

高島炭鉱の二子立坑用から流用ピークを凌ぐ。


「石炭分離問題」

三瀬からの石炭は、湧水と一緒にH型コンベヤーで運ばれた。

○そのH型コンベアーに水抜きトラフを入れ込んで分離回収した。

○本坑道と連絡行動の間に沈殿パック設置して回収。

○端島の第四立坑下に固定スクリーン設置、水中ポンプで回収。

この一連の作業により三瀬地区で取れた石炭を、冗談で「工作出炭」と言っていた。

この三瀬地区の採炭は炭層が薄かったので、採炭切羽が120mに近づくに及び、

安全性も担保できなくなり炭量が枯渇したと判断

端島炭坑は黒字の状態で閉山を迎えた。



上記の内容は元炭鉱技術者、
田中實夫さまに多大なる御協力を頂き作成したものです。

田中實夫さん 
高島炭鉱副所長
端島炭坑三瀬地区総責任者


3片坑道を少し歩くと坑道の横に二坑底二抗低ポンプ座があり、
225キロワットのポンプ4台が設置されていました。

海底炭鉱のため、構内湧水は常にありました。

すべての坑内水をここに集めて、
四抗底ポンプ座藻で集めて更に800馬力ポンプを運転し
四坑内にある排水管を通して海に排出していました。

(私の軍艦島より 加地英夫さん)



「福岡、熊本 荒尾大牟田三井三池炭鉱出水対策」

明治時代に建設されたデビーポンプ室の煉瓦壁です。
煉瓦造り3階建の建物で、
英国デビー社製のポンプが4基設置され、坑内排水を行っていました。

トシ


tosi

その後、動力が蒸気から電気に本格的に以降するのを受けて、

1931(昭和6)年に運転を停止し、建物を変電所として利用しました。


tosi
当時、絵葉書にをなったデービーポンプ

tosi


トシ
宮原坑のパイプも残っています。

トシ

そもそも宮原坑は、地下水を汲み上げて排出することを主な目的として設置された坑口です。
地下で行われる石炭採掘において、大量の湧水は難敵。
三池炭鉱は地下水が特に多く開発に苦労していたが、
イギリス製のデビーポンプという当時最新鋭で、非常に高価な排水ポンプを導入して克服した。

デビーポンプは1893年、勝立坑に最初導入された。
当時世界最大の排水ポンプで、宮原坑は勝立坑についでデビーポンプが設置された坑口であり、
宮原坑第二立坑櫓の脇にれんが塀のように残っている建物遺構は、
かつてデビーポンプ室の一部です。
汲み出された地下水を排出していた水路もよく残っています。

大牟田・荒尾地区は日本有数の石炭の一大産炭地でした。
当初は湧水により採掘が進みませんでしたが、
指揮を執った「團琢磨」が当時世界最新鋭であった英国製の排水ポンプ「デビーポンプ」
を導入し排水が可能となったため、日本の近代化を牽引する炭鉱として成長を遂げました。
「三池炭鉱」の宮原坑・万田坑・専用鉄道敷跡は、
2015(平成27)年に世界文化遺産登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産です。


トシ

巻上げ機操作室




トシ
巨大な立坑巻上げ機

tosi

巻上げ機のブレーキもありました

トシ
万田抗立坑

トシ




トシ
「三川坑斜坑跡」

1933年(昭和8年)宮浦 万田 四山に次ぐ有明海の下を採掘するため
大牟田市西港から有明海下を傾斜11度、長さ2000メーター斜坑
2本を、
震度350レベルを基準抗抵として四山坑共に連結させました。



トシ

昭和59年 西原駅に停車中の炭鉱列車

トシ
今も残る三池炭鉱専用鉄道敷地跡

トシ
石炭専用列車運転席

トシ
炭鉱専用電車


トシとし

大牟田市石炭産業科学館           企画担当  長 さん




とし

自走枠とドラムカッターの組み合わせで

ドラムカッターの横には払いコンベアーが付いていて、採炭した石炭を後ろに運びます。

1日に1万トン以上の石炭を
掘り出すことが可能になりました。

トシ

水圧式鉄柱と天板かっぺの組み合わせで行動の安全を図りながら前に進んでいく。
「かっぺ採炭方」「長壁採炭方」などが採用された。

水圧鉄柱とカッペで坑道を押えるようになり効率が良くなったが

自重が増すと薄い層でも自走式枠が必要となり色んなタイプの

自走枠が作られて行くこととなった。(大牟田市石炭産業科学館より)



それでは、そろそろ 次のブログでお会いしましょう。

次回も軍艦島をはじめとする明治の炭鉱の歴史など

紹介していきたいと思います。

軍艦島デジタルミュージアム

近代史担当、政次【まさつぐ】でした。


みなさん こんにちは。

軍艦島デジタルミュージアムの近代史担当トシです。

今回は海底炭鉱の宿命「湧水」

炭鉱技術者たちの「水との戦い」をテーマにお話を進めたいと思います。



「端島炭坑三瀬地区出水対策」

三瀬地区の炭層はでは浅部に近づくとともに出水が多くなり

三瀬からの石炭は、海水との分離に苦心しました。

三瀬地区から2.345Kmをドロドロの混ざった第四竪坑で運ばれた。


「坑内排水問題」

総排水量はピーク時 三瀬地区から8t  端島沖炭坑道から6t  その他6t

合計20tにも及んだ。

2000kwのタービンポンプが必要。

高島炭鉱の二子立坑用から流用ピークを凌ぐ。


「石炭分離問題」

三瀬からの石炭は、湧水と一緒にH型コンベヤーで運ばれた。

○そのH型コンベアーに水抜きトラフを入れ込んで分離回収した。

○本坑道と連絡行動の間に沈殿パック設置して回収。

○端島の第四立坑下に固定スクリーン設置、水中ポンプで回収。

この一連の作業により三瀬地区で取れた石炭を、冗談で「工作出炭」と言っていた。

この三瀬地区の採炭は炭層が薄かったので、採炭切羽が120mに近づくに及び、

安全性も担保できなくなり炭量が枯渇したと判断

端島炭坑は黒字の状態で閉山を迎えた。



上記の内容は元炭鉱技術者、
田中實夫さまに多大なる御協力を頂き作成したものです。

田中實夫さん 
高島炭鉱副所長
端島炭坑三瀬地区総責任者


3片坑道を少し歩くと坑道の横に二坑底二抗低ポンプ座があり、
225キロワットのポンプ4台が設置されていました。

海底炭鉱のため、構内湧水は常にありました。

すべての坑内水をここに集めて、
四抗底ポンプ座藻で集めて更に800馬力ポンプを運転し
四坑内にある排水管を通して海に排出していました。

(私の軍艦島より 加地英夫さん)



「福岡、熊本 荒尾大牟田三井三池炭鉱出水対策」

明治時代に建設されたデビーポンプ室の煉瓦壁です。
煉瓦造り3階建の建物で、
英国デビー社製のポンプが4基設置され、坑内排水を行っていました。

トシ


tosi

その後、動力が蒸気から電気に本格的に以降するのを受けて、

1931(昭和6)年に運転を停止し、建物を変電所として利用しました。


tosi
当時、絵葉書にをなったデービーポンプ

tosi


トシ
宮原坑のパイプも残っています。

トシ

そもそも宮原坑は、地下水を汲み上げて排出することを主な目的として設置された坑口です。
地下で行われる石炭採掘において、大量の湧水は難敵。
三池炭鉱は地下水が特に多く開発に苦労していたが、
イギリス製のデビーポンプという当時最新鋭で、非常に高価な排水ポンプを導入して克服した。

デビーポンプは1893年、勝立坑に最初導入された。
当時世界最大の排水ポンプで、宮原坑は勝立坑についでデビーポンプが設置された坑口であり、
宮原坑第二立坑櫓の脇にれんが塀のように残っている建物遺構は、
かつてデビーポンプ室の一部です。
汲み出された地下水を排出していた水路もよく残っています。

大牟田・荒尾地区は日本有数の石炭の一大産炭地でした。
当初は湧水により採掘が進みませんでしたが、
指揮を執った「團琢磨」が当時世界最新鋭であった英国製の排水ポンプ「デビーポンプ」
を導入し排水が可能となったため、日本の近代化を牽引する炭鉱として成長を遂げました。
「三池炭鉱」の宮原坑・万田坑・専用鉄道敷跡は、
2015(平成27)年に世界文化遺産登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産です。


トシ

巻上げ機操作室




トシ
巨大な立坑巻上げ機

tosi

巻上げ機のブレーキもありました

トシ
万田抗立坑

トシ




トシ
「三川坑斜坑跡」

1933年(昭和8年)宮浦 万田 四山に次ぐ有明海の下を採掘するため
大牟田市西港から有明海下を傾斜11度、長さ2000メーター斜坑
2本を、
震度350レベルを基準抗抵として四山坑共に連結させました。



トシ

昭和59年 西原駅に停車中の炭鉱列車

トシ
今も残る三池炭鉱専用鉄道敷地跡

トシ
石炭専用列車運転席

トシ
炭鉱専用電車


トシとし

大牟田市石炭産業科学館           企画担当  長 さん




とし

自走枠とドラムカッターの組み合わせで

ドラムカッターの横には払いコンベアーが付いていて、採炭した石炭を後ろに運びます。

1日に1万トン以上の石炭を
掘り出すことが可能になりました。

トシ

水圧式鉄柱と天板かっぺの組み合わせで行動の安全を図りながら前に進んでいく。
「かっぺ採炭方」「長壁採炭方」などが採用された。

水圧鉄柱とカッペで坑道を押えるようになり効率が良くなったが

自重が増すと薄い層でも自走式枠が必要となり色んなタイプの

自走枠が作られて行くこととなった。(大牟田市石炭産業科学館より)



それでは、そろそろ 次のブログでお会いしましょう。

次回も軍艦島をはじめとする明治の炭鉱の歴史など

紹介していきたいと思います。

軍艦島デジタルミュージアム

近代史担当、政次【まさつぐ】でした。


みなさん こんにちは。

軍艦島デジタルミュージアムの近代史担当トシです。

今回は海底炭鉱の宿命「湧水」

炭鉱技術者たちの「水との戦い」をテーマにお話を進めたいと思います。



「端島炭坑三瀬地区出水対策」

三瀬地区の炭層はでは浅部に近づくとともに出水が多くなり

三瀬からの石炭は、海水との分離に苦心しました。

三瀬地区から2.345Kmをドロドロの混ざった第四竪坑で運ばれた。


「坑内排水問題」

総排水量はピーク時 三瀬地区から8t  端島沖炭坑道から6t  その他6t

合計20tにも及んだ。

2000kwのタービンポンプが必要。

高島炭鉱の二子立坑用から流用ピークを凌ぐ。


「石炭分離問題」

三瀬からの石炭は、湧水と一緒にH型コンベヤーで運ばれた。

○そのH型コンベアーに水抜きトラフを入れ込んで分離回収した。

○本坑道と連絡行動の間に沈殿パック設置して回収。

○端島の第四立坑下に固定スクリーン設置、水中ポンプで回収。

この一連の作業により三瀬地区で取れた石炭を、冗談で「工作出炭」と言っていた。

この三瀬地区の採炭は炭層が薄かったので、採炭切羽が120mに近づくに及び、

安全性も担保できなくなり炭量が枯渇したと判断

端島炭坑は黒字の状態で閉山を迎えた。



上記の内容は元炭鉱技術者、
田中實夫さまに多大なる御協力を頂き作成したものです。

田中實夫さん 
高島炭鉱副所長
端島炭坑三瀬地区総責任者


3片坑道を少し歩くと坑道の横に二坑底二抗低ポンプ座があり、
225キロワットのポンプ4台が設置されていました。

海底炭鉱のため、構内湧水は常にありました。

すべての坑内水をここに集めて、
四抗底ポンプ座藻で集めて更に800馬力ポンプを運転し
四坑内にある排水管を通して海に排出していました。

(私の軍艦島より 加地英夫さん)



「福岡、熊本 荒尾大牟田三井三池炭鉱出水対策」

明治時代に建設されたデビーポンプ室の煉瓦壁です。
煉瓦造り3階建の建物で、
英国デビー社製のポンプが4基設置され、坑内排水を行っていました。

トシ


tosi

その後、動力が蒸気から電気に本格的に以降するのを受けて、

1931(昭和6)年に運転を停止し、建物を変電所として利用しました。


tosi
当時、絵葉書にをなったデービーポンプ

tosi


トシ
宮原坑のパイプも残っています。

トシ

そもそも宮原坑は、地下水を汲み上げて排出することを主な目的として設置された坑口です。
地下で行われる石炭採掘において、大量の湧水は難敵。
三池炭鉱は地下水が特に多く開発に苦労していたが、
イギリス製のデビーポンプという当時最新鋭で、非常に高価な排水ポンプを導入して克服した。

デビーポンプは1893年、勝立坑に最初導入された。
当時世界最大の排水ポンプで、宮原坑は勝立坑についでデビーポンプが設置された坑口であり、
宮原坑第二立坑櫓の脇にれんが塀のように残っている建物遺構は、
かつてデビーポンプ室の一部です。
汲み出された地下水を排出していた水路もよく残っています。

大牟田・荒尾地区は日本有数の石炭の一大産炭地でした。
当初は湧水により採掘が進みませんでしたが、
指揮を執った「團琢磨」が当時世界最新鋭であった英国製の排水ポンプ「デビーポンプ」
を導入し排水が可能となったため、日本の近代化を牽引する炭鉱として成長を遂げました。
「三池炭鉱」の宮原坑・万田坑・専用鉄道敷跡は、
2015(平成27)年に世界文化遺産登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産です。


トシ

巻上げ機操作室




トシ
巨大な立坑巻上げ機

tosi

巻上げ機のブレーキもありました

トシ
万田抗立坑

トシ




トシ
「三川坑斜坑跡」

1933年(昭和8年)宮浦 万田 四山に次ぐ有明海の下を採掘するため
大牟田市西港から有明海下を傾斜11度、長さ2000メーター斜坑
2本を、
震度350レベルを基準抗抵として四山坑共に連結させました。



トシ

昭和59年 西原駅に停車中の炭鉱列車

トシ
今も残る三池炭鉱専用鉄道敷地跡

トシ
石炭専用列車運転席

トシ
炭鉱専用電車


トシとし

大牟田市石炭産業科学館           企画担当  長 さん




とし

自走枠とドラムカッターの組み合わせで

ドラムカッターの横には払いコンベアーが付いていて、採炭した石炭を後ろに運びます。

1日に1万トン以上の石炭を
掘り出すことが可能になりました。

トシ

水圧式鉄柱と天板かっぺの組み合わせで行動の安全を図りながら前に進んでいく。
「かっぺ採炭方」「長壁採炭方」などが採用された。

水圧鉄柱とカッペで坑道を押えるようになり効率が良くなったが

自重が増すと薄い層でも自走式枠が必要となり色んなタイプの

自走枠が作られて行くこととなった。(大牟田市石炭産業科学館より)



それでは、そろそろ 次のブログでお会いしましょう。

次回も軍艦島をはじめとする明治の炭鉱の歴史など

紹介していきたいと思います。

軍艦島デジタルミュージアム

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