
STAFF BLOGスタッフブログ
2026/09/16
福澤諭吉が三菱に与えた影響
福澤諭吉が三菱に与えた影響
福澤諭吉が三菱に与えた影響
福澤諭吉が三菱に与えた影響
皆さんお元気でしょうか
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当の政次です。
今回は三菱や明治時代に多大なる影響を及ぼした思想家・教育者である福澤諭吉のお話をしたいと思います。
福澤諭吉の秘蔵っ子とも言える庄田平五郎を三菱に推薦したことによって三菱は大きく発展しました。
頑固な岩崎弥太郎も、福澤諭吉の意見だけはよく聞いたそうだ
弥太郎は福澤諭吉に「会社の経営を任せられるような有能な人物を紹介してくれ」と頼まれた諭吉は
迷うことなく慶應義塾の第一期生で、ズバ抜けて頭の良い荘田平五郎を弥太郎に推薦した。
その当時慶應義塾で講師も兼任していた平五郎は、自分は学者になるのだろうと漠然と考えていた。
自分が日頃学んでいる学問というものが、
果たして実務に役立つものなのかと思ってもいた平五郎は、三菱に入社することを決心した。
平五郎の入社により三菱は多角経営化を目指す財閥企業へと成長していく事となるのである。
福澤諭吉は荘田平五郎が学問だけを得意とする机の上の秀才ではなく、
商売のセンスをも併せ持つ逸材であることを見抜いていたのだ。
福澤諭吉(1835~1901年)は、明治時代の偉大な思想家であり、慶應義塾の創設者です。
「天は人の上に人をつくらず」と説いて、身分にとらわれない自立の精神独立自尊の精神を
主張し、そして西洋の進んだ知識を分かりやすく日本人に教え、近代日本の基礎を作りました。
一人ひとりの自立が国をつくる: 国民がそれぞれ独立心を持ち、自分の意見と行動力を持つことが、
結果的に強い日本を作ることにつながると説いています。 (学問のすすめより)
私は今回、福澤諭吉をもっと知るために
福澤諭吉が故郷である大分県中津市まで行ってきました。
福澤諭吉記念館

諭吉が子供の頃遊び、学んだ場所
福澤諭吉は、アメリカの簿記書を翻訳した著書『帳合之法』を明治6年(1873年)に出版し、
日本に西洋の複式簿記を初めて広く紹介しました。このように諭吉は、机上の学問だけでなく
実利に結びつくものを取り上げる、現実主義を重んじた。

中津市といえば中津城!
黒田如水が築城を始め、日本三大水城の一つであり
「花城」としても知られている。

石垣特徴があり「黒田時代と細川時代」によってはっきりと変わってきます。
荘田 平五郎(しょうだへいごろう)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。
長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、
日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任した。
明治時代を代表する実業家といわれる荘田平五郎は、三菱の「大番頭」と呼ばれ、
日本の四大財閥のひとつである三菱財閥の基礎を築き、創業者の岩崎彌太郎はじめ岩崎家3代に仕えた。
また、荘田は慶應義塾に学び、慶應義塾で教え、福澤からの期待を大きく受け、その期待に応えた人物でもある。
(丸の内オフィス街の建設)明治22年、ロンドンに滞在していた荘田はある日、日本から届いた新聞をホテルの部屋で読んでおり、この新聞のコラム欄で、ある記事を目にする。
その記事には、日本政府が陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内にある練兵場を売りに出したが誰も買い手がつかない、ということが書かれていた。
この記事を読んで、この丸の内こそ日本のオフィス街にふさわしいと考え、荘田はいそいで日本にいる岩崎弥之助宛に、「丸の内を直ちに買い取るべきである」との電報を打ったのである。
弥之助はこれを受け、明治23年に丸の内の土地を全て買い取った。その後この地は日本一のオフィス街に変貌していったのである。
因みに、弥之助が軍艦島を買った年も明治23年である。
ジョサイヤ・コンドル
曽禰達蔵
イギリスの建築家ジョサイヤ・コンドル、世界遺産の占勝閣を設計した曽禰達蔵(そねたつぞう)
そして三菱の大番頭庄屋平五郎この三人がタッグを組んで、丸ノ内のオフィス街を作った。
2009年 復元された三菱一号(美術館)
それでは、そろそろ今回のお話を、
終わりたいと思います。
次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム
近代史担当 政次でした。
皆さんお元気でしょうか
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当の政次です。
今回は三菱や明治時代に多大なる影響を及ぼした思想家・教育者である福澤諭吉のお話をしたいと思います。
福澤諭吉の秘蔵っ子とも言える庄田平五郎を三菱に推薦したことによって三菱は大きく発展しました。
頑固な岩崎弥太郎も、福澤諭吉の意見だけはよく聞いたそうだ
弥太郎は福澤諭吉に「会社の経営を任せられるような有能な人物を紹介してくれ」と頼まれた諭吉は
迷うことなく慶應義塾の第一期生で、ズバ抜けて頭の良い荘田平五郎を弥太郎に推薦した。
その当時慶應義塾で講師も兼任していた平五郎は、自分は学者になるのだろうと漠然と考えていた。
自分が日頃学んでいる学問というものが、
果たして実務に役立つものなのかと思ってもいた平五郎は、三菱に入社することを決心した。
平五郎の入社により三菱は多角経営化を目指す財閥企業へと成長していく事となるのである。
福澤諭吉は荘田平五郎が学問だけを得意とする机の上の秀才ではなく、
商売のセンスをも併せ持つ逸材であることを見抜いていたのだ。
福澤諭吉(1835~1901年)は、明治時代の偉大な思想家であり、慶應義塾の創設者です。
「天は人の上に人をつくらず」と説いて、身分にとらわれない自立の精神独立自尊の精神を
主張し、そして西洋の進んだ知識を分かりやすく日本人に教え、近代日本の基礎を作りました。
一人ひとりの自立が国をつくる: 国民がそれぞれ独立心を持ち、自分の意見と行動力を持つことが、
結果的に強い日本を作ることにつながると説いています。 (学問のすすめより)
私は今回、福澤諭吉をもっと知るために
福澤諭吉が故郷である大分県中津市まで行ってきました。
福澤諭吉記念館

諭吉が子供の頃遊び、学んだ場所
福澤諭吉は、アメリカの簿記書を翻訳した著書『帳合之法』を明治6年(1873年)に出版し、
日本に西洋の複式簿記を初めて広く紹介しました。このように諭吉は、机上の学問だけでなく
実利に結びつくものを取り上げる、現実主義を重んじた。

中津市といえば中津城!
黒田如水が築城を始め、日本三大水城の一つであり
「花城」としても知られている。

石垣特徴があり「黒田時代と細川時代」によってはっきりと変わってきます。
荘田 平五郎(しょうだへいごろう)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。
長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、
日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任した。
明治時代を代表する実業家といわれる荘田平五郎は、三菱の「大番頭」と呼ばれ、
日本の四大財閥のひとつである三菱財閥の基礎を築き、創業者の岩崎彌太郎はじめ岩崎家3代に仕えた。
また、荘田は慶應義塾に学び、慶應義塾で教え、福澤からの期待を大きく受け、その期待に応えた人物でもある。
(丸の内オフィス街の建設)明治22年、ロンドンに滞在していた荘田はある日、日本から届いた新聞をホテルの部屋で読んでおり、この新聞のコラム欄で、ある記事を目にする。
その記事には、日本政府が陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内にある練兵場を売りに出したが誰も買い手がつかない、ということが書かれていた。
この記事を読んで、この丸の内こそ日本のオフィス街にふさわしいと考え、荘田はいそいで日本にいる岩崎弥之助宛に、「丸の内を直ちに買い取るべきである」との電報を打ったのである。
弥之助はこれを受け、明治23年に丸の内の土地を全て買い取った。その後この地は日本一のオフィス街に変貌していったのである。
因みに、弥之助が軍艦島を買った年も明治23年である。
ジョサイヤ・コンドル
曽禰達蔵
イギリスの建築家ジョサイヤ・コンドル、世界遺産の占勝閣を設計した曽禰達蔵(そねたつぞう)
そして三菱の大番頭庄屋平五郎この三人がタッグを組んで、丸ノ内のオフィス街を作った。
2009年 復元された三菱一号(美術館)
それでは、そろそろ今回のお話を、
終わりたいと思います。
次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム
近代史担当 政次でした。
皆さんお元気でしょうか
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当の政次です。
今回は三菱や明治時代に多大なる影響を及ぼした思想家・教育者である福澤諭吉のお話をしたいと思います。
福澤諭吉の秘蔵っ子とも言える庄田平五郎を三菱に推薦したことによって三菱は大きく発展しました。
頑固な岩崎弥太郎も、福澤諭吉の意見だけはよく聞いたそうだ
弥太郎は福澤諭吉に「会社の経営を任せられるような有能な人物を紹介してくれ」と頼まれた諭吉は
迷うことなく慶應義塾の第一期生で、ズバ抜けて頭の良い荘田平五郎を弥太郎に推薦した。
その当時慶應義塾で講師も兼任していた平五郎は、自分は学者になるのだろうと漠然と考えていた。
自分が日頃学んでいる学問というものが、
果たして実務に役立つものなのかと思ってもいた平五郎は、三菱に入社することを決心した。
平五郎の入社により三菱は多角経営化を目指す財閥企業へと成長していく事となるのである。
福澤諭吉は荘田平五郎が学問だけを得意とする机の上の秀才ではなく、
商売のセンスをも併せ持つ逸材であることを見抜いていたのだ。
福澤諭吉(1835~1901年)は、明治時代の偉大な思想家であり、慶應義塾の創設者です。
「天は人の上に人をつくらず」と説いて、身分にとらわれない自立の精神独立自尊の精神を
主張し、そして西洋の進んだ知識を分かりやすく日本人に教え、近代日本の基礎を作りました。
一人ひとりの自立が国をつくる: 国民がそれぞれ独立心を持ち、自分の意見と行動力を持つことが、
結果的に強い日本を作ることにつながると説いています。 (学問のすすめより)
私は今回、福澤諭吉をもっと知るために
福澤諭吉が故郷である大分県中津市まで行ってきました。
福澤諭吉記念館

諭吉が子供の頃遊び、学んだ場所
福澤諭吉は、アメリカの簿記書を翻訳した著書『帳合之法』を明治6年(1873年)に出版し、
日本に西洋の複式簿記を初めて広く紹介しました。このように諭吉は、机上の学問だけでなく
実利に結びつくものを取り上げる、現実主義を重んじた。

中津市といえば中津城!
黒田如水が築城を始め、日本三大水城の一つであり
「花城」としても知られている。

石垣特徴があり「黒田時代と細川時代」によってはっきりと変わってきます。
荘田 平五郎(しょうだへいごろう)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。
長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、
日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任した。
明治時代を代表する実業家といわれる荘田平五郎は、三菱の「大番頭」と呼ばれ、
日本の四大財閥のひとつである三菱財閥の基礎を築き、創業者の岩崎彌太郎はじめ岩崎家3代に仕えた。
また、荘田は慶應義塾に学び、慶應義塾で教え、福澤からの期待を大きく受け、その期待に応えた人物でもある。
(丸の内オフィス街の建設)明治22年、ロンドンに滞在していた荘田はある日、日本から届いた新聞をホテルの部屋で読んでおり、この新聞のコラム欄で、ある記事を目にする。
その記事には、日本政府が陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内にある練兵場を売りに出したが誰も買い手がつかない、ということが書かれていた。
この記事を読んで、この丸の内こそ日本のオフィス街にふさわしいと考え、荘田はいそいで日本にいる岩崎弥之助宛に、「丸の内を直ちに買い取るべきである」との電報を打ったのである。
弥之助はこれを受け、明治23年に丸の内の土地を全て買い取った。その後この地は日本一のオフィス街に変貌していったのである。
因みに、弥之助が軍艦島を買った年も明治23年である。
ジョサイヤ・コンドル
曽禰達蔵
イギリスの建築家ジョサイヤ・コンドル、世界遺産の占勝閣を設計した曽禰達蔵(そねたつぞう)
そして三菱の大番頭庄屋平五郎この三人がタッグを組んで、丸ノ内のオフィス街を作った。
2009年 復元された三菱一号(美術館)
それでは、そろそろ今回のお話を、
終わりたいと思います。
次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム
近代史担当 政次でした。
皆さんお元気でしょうか
軍艦島デジタルミュージアム 近代史担当の政次です。
今回は三菱や明治時代に多大なる影響を及ぼした思想家・教育者である福澤諭吉のお話をしたいと思います。
福澤諭吉の秘蔵っ子とも言える庄田平五郎を三菱に推薦したことによって三菱は大きく発展しました。
頑固な岩崎弥太郎も、福澤諭吉の意見だけはよく聞いたそうだ
弥太郎は福澤諭吉に「会社の経営を任せられるような有能な人物を紹介してくれ」と頼まれた諭吉は
迷うことなく慶應義塾の第一期生で、ズバ抜けて頭の良い荘田平五郎を弥太郎に推薦した。
その当時慶應義塾で講師も兼任していた平五郎は、自分は学者になるのだろうと漠然と考えていた。
自分が日頃学んでいる学問というものが、
果たして実務に役立つものなのかと思ってもいた平五郎は、三菱に入社することを決心した。
平五郎の入社により三菱は多角経営化を目指す財閥企業へと成長していく事となるのである。
福澤諭吉は荘田平五郎が学問だけを得意とする机の上の秀才ではなく、
商売のセンスをも併せ持つ逸材であることを見抜いていたのだ。
福澤諭吉(1835~1901年)は、明治時代の偉大な思想家であり、慶應義塾の創設者です。
「天は人の上に人をつくらず」と説いて、身分にとらわれない自立の精神独立自尊の精神を
主張し、そして西洋の進んだ知識を分かりやすく日本人に教え、近代日本の基礎を作りました。
一人ひとりの自立が国をつくる: 国民がそれぞれ独立心を持ち、自分の意見と行動力を持つことが、
結果的に強い日本を作ることにつながると説いています。 (学問のすすめより)
私は今回、福澤諭吉をもっと知るために
福澤諭吉が故郷である大分県中津市まで行ってきました。
福澤諭吉記念館

諭吉が子供の頃遊び、学んだ場所
福澤諭吉は、アメリカの簿記書を翻訳した著書『帳合之法』を明治6年(1873年)に出版し、
日本に西洋の複式簿記を初めて広く紹介しました。このように諭吉は、机上の学問だけでなく
実利に結びつくものを取り上げる、現実主義を重んじた。

中津市といえば中津城!
黒田如水が築城を始め、日本三大水城の一つであり
「花城」としても知られている。

石垣特徴があり「黒田時代と細川時代」によってはっきりと変わってきます。
荘田 平五郎(しょうだへいごろう)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。
長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、
日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任した。
明治時代を代表する実業家といわれる荘田平五郎は、三菱の「大番頭」と呼ばれ、
日本の四大財閥のひとつである三菱財閥の基礎を築き、創業者の岩崎彌太郎はじめ岩崎家3代に仕えた。
また、荘田は慶應義塾に学び、慶應義塾で教え、福澤からの期待を大きく受け、その期待に応えた人物でもある。
(丸の内オフィス街の建設)明治22年、ロンドンに滞在していた荘田はある日、日本から届いた新聞をホテルの部屋で読んでおり、この新聞のコラム欄で、ある記事を目にする。
その記事には、日本政府が陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内にある練兵場を売りに出したが誰も買い手がつかない、ということが書かれていた。
この記事を読んで、この丸の内こそ日本のオフィス街にふさわしいと考え、荘田はいそいで日本にいる岩崎弥之助宛に、「丸の内を直ちに買い取るべきである」との電報を打ったのである。
弥之助はこれを受け、明治23年に丸の内の土地を全て買い取った。その後この地は日本一のオフィス街に変貌していったのである。
因みに、弥之助が軍艦島を買った年も明治23年である。
ジョサイヤ・コンドル
曽禰達蔵
イギリスの建築家ジョサイヤ・コンドル、世界遺産の占勝閣を設計した曽禰達蔵(そねたつぞう)
そして三菱の大番頭庄屋平五郎この三人がタッグを組んで、丸ノ内のオフィス街を作った。
2009年 復元された三菱一号(美術館)
それでは、そろそろ今回のお話を、
終わりたいと思います。
次のブログでお会いしましょう。
軍艦島デジタルミュージアム
近代史担当 政次でした。



