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    松浦 邦雄「軍艦島と私」

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2018/09/17

松浦 邦雄「軍艦島と私」

松浦 邦雄「軍艦島と私」

松浦 邦雄「軍艦島と私」

松浦 邦雄「軍艦島と私」

(1)昭和33年当時の軍艦島

私こと、松浦邦雄は、昭和33年4月1日三菱鉱業(株)に入社、本社教育を受けた後、

直ちに採炭技師として、長崎港外に在る高島砿業所に赴任を命ぜられました。

 

高島砿業所は、高島砿と端島砿(軍艦島)からなる海底炭鉱でした。

当時の石炭業界は、全盛期を過ぎたとは言え、まだ炭坑節の“月が出た出た”の余勢があり、

石油の進出に対抗すべく、スクラップアンドビルドの合理化を推進中でした。

 

三菱鉱業の場合、九州では、高島砿業所がビルド鉱として積極的な設備投資の下、

筑豊地区のスクラップ鉱からの配転従業員の受け皿になりました。

 

筑豊炭が燃料用の一般炭だったのに対し、高島地区の石炭は高品質、

高カロリーの原料炭で、石油に対抗できる商品でした。

特に端島炭は、売れ筋のブランド品でした。

 

原料炭の豊富な埋蔵量を抱えた高島砿業所は、正に不沈空母でしたが、

当時の端島砿の採炭区域は、海面下800mと高島砿に比べ深く、高温多湿、然も炭層が急傾斜している為、

採炭機械の導入には、多くの壁がありました。

 

高島砿は、機械化が容易な地層に恵まれ、

ホーベルやドラムカッターといった最新式の採炭機械の導入が逐次行われて、

生産性の向上や安全作業に貢献していました。



(2)昭和
39年の事故で軍艦島ドック入り

 

私は高島砿業所着任後、半年間に高島・端島両砿の現場でみっちりと実習を受け、

同時に必要な国家試験資格も取得し、高島砿の採炭の第一線で働く事になりました。

 

入社当時、私は高島の清和寮と言う独身合宿に入居しておりましたが、

丘の上に建てられた合宿から、端島がくっきり展望され、

特に夜景の独特の美しさに、強く惹かれておりました。

 

私はある意味で往昔の軍国少年で、軍艦の勇姿に胸を時めかせてきましたので、

端島の写真を見て、是非乗艦してみたい気持が高ぶっておりました。

 

実は、学生時代の鉱山見学や実習で、端島に関する知識は充分把握しており、

軍艦島の存在が三菱入社希望の一因でもあったのです。

 

それで着任後、早速 端島勤務を願い出たのですが、

高島砿で、じっくり勉強してからでも遅くないからと助言があり、

若手社員として、先ずは炭鉱近代化を進める技術の習得に熱中しました。

 

その間不幸にして、端島砿は昭和398月に坑内深部の炭層が自然発火し炎上した為

当時の採炭区域は水没放棄され、一時生産中断のやむなきに至り


先行して開発を進めて来た三ツ瀬沖区域に、急ぎ生産拠点を移す事になりました。


(3)昭和
4011月 軍艦島復旧戦列へ

三ツ瀬区域の埋蔵量は、当時の生産規模で10年強程度でしたが、炭層は海面下

350mレベルと浅く、傾斜も比較的緩やかで、

高島並に採炭現場は安全な鉄柱(油圧式)・鉄梁(カッぺ)、

ドラムカッター採炭機械の使用が可能になりました。

 

併行して端島沖区域の開発も始まり、三ツ瀬区域後に備える事となっていました。

そして端島砿は昭和4011月、三ツ瀬沖区域で採炭が再開され

之に伴い10月に高島から技術者達が、新生端島砿に移動勤務したのです。

 

私もその一員に選ばれ、正に血湧き肉躍る心地でした。

高島着任後7年半の事でした。

実は、私事ながら昭和36年10月26日に結婚し、高島の新金堀社宅に入居していましたが、

この間子宝に恵まれず、内心焦っていました。

 

環境が変わればとの期待感もあり、喜び勇んで軍艦島に乗艦しました。

そして8号社宅に入居して1年2ヶ月後、昭和41126日私達に長男が誕生

軍艦島のご利益には、本当に感謝感激しました。

 

蛇足ながら、命名に時間を掛け “はしま” ゆかりの名前を考えたのですが

“末馬” 以外に該当する漢字が見つからず、競馬の尻馬では拙いとの声で、

已む無く母と妻の名から1字ヅツ拝借、“正弥”と言う事にしました。

 

母と妻は大喜びでしたが、私は “松浦端島” にしておけば良かったなあと、今だにこだわってます。


(4)順風満帆 軍艦島での日常生活

端島での仕事は順調で楽しく、採炭現場の責任者として生甲斐を感じる日々を送る事が出来ました。

 

4年後には仕事と兼務ながらも、当番制で職員組合長も拝命し、

公私共に充実した生活が出来た事を、今も神仏に感謝しています。

 

端島は長崎港外とはいえ、東シナ海の海上にあり、風次第では波しぶきも高くて連絡船の欠航が多く、

対岸の野母半島からの魚菜舟の行商人が足止めを食うなど、生活面で不便を感じる面もありましたが、

島の中自体の日常生活は水道、電気などインフラ設備は安定していました。

 

端島の敷地面積は、島全体を取り囲む防波岸壁の上で、

煙草に点火し、一めぐりした時に丁度燃え尽きる程度の広さでした。

岸壁の長さは約1km強でした。

 

防波岸壁の内側には売店は勿論、

映画館はじめ、小中学校、病院、神社、お寺、警察官駐在所にいたるまで、

小柄ながらも形を揃え、イベント会場というか、映画のセットに似た雰囲気があり、今も愛着を感じています。

 

戦後間もない昭和23年、映画“緑なき島”のロケ地になったとも聞いています。

人口は昭和35年の5,267人に比べると、40年は3,400人程で35%近く減っていましたが、

その分社宅も広く改造され、住民の表情にも明るさがありました。

 

当然ながら、都会で見かける物乞いの“おこもさん”の姿もなく、

端島も炭住街らしく、昔ながらに向こう三軒両隣り、多くの世帯が家庭電化生活を満喫、

お互いが助け合う「全島一家」のムードに溢れていました。

 

職場の雰囲気もその延長線上にあり、採炭現場(切羽)から上がって入浴し、

炭塵を落とした後は、各家庭に押掛けて、ノミニケーションの場が展開するという良好な人間関係が、

生産性の向上にも寄与してくれました。

 

労働組合も、高島が総評の最先鋭の炭労傘下にあり、“三菱が潰れても高島は残る“とのスローガンのもと、

職場闘争や会社側との対決姿勢を鮮明にしていたのに対し、

端島労組は全炭鉱系に属して比較的柔軟な話合いの姿勢を示してくれ、係員を吊し上げるなど、

職場にイデオロギーを持ち込むトゲトゲした雰囲気は無く、仕事を円滑に進める事が出来ました。

 

石炭の生産量も、機械化による少数精鋭で月間3万5千トン台を記録するなど、

採炭再開後は島全体が活況に満ち、端島で一番いい時期を体感出来ました。

 

(5)新規区域開発中止で退艦の憂き目に

 

端島着任4年後、私は現場業務から計画企画業務に携る事になりました。

坑務課長の側近として重要事項にも触れる機会も多くなり、現場とは別の緊張感の毎日を過しました。

 

一番衝撃を受けたのは、海面下―600mで掘進中の、端島沖区域探炭坑道が断層破砕帯に遭遇、

落盤に加え多量の出水で、前進を阻まれる事態になりました。

 

かろうじて突破したものの、再び破砕帯に遭遇、

行く手を阻まれ工事は大幅に遅延、更に不運な事は、各調査結果炭層位置が当初予想よりも深く、

1000mレベルと分り、開発は絶望視されるに至りました。

 

端島沖区域は、現三ツ瀬区域以降につながる端島の生命線だっただけに、

あと数年の砿命に到った事で、私にとっても、これは正に青天の霹靂でした。

 

この重大な事実は一時期伏せられたものの、現場の開発グループが縮小した事で、

従業員の間にも、薄々端島沖区域開発工事断念の噂が広まりました。

 

会社も昭和45年3月末、組合に対し、開発工事中止の経緯を説明する事になりました。

以降 従業員が端島に見切りをつけ、離島する風潮が加速しました。

 

当時の日本は高度成長期に入っており、人材を求め鉱山以外の産業界から引く手あまたという状況でした。

 

端島砿もそのあおりを受け人手が不足し、縮小体制に入らざるを得なくなりました。

実は端島と心中する覚悟だった私にも、内内転勤の打診があり、少なからずショックを受けました。

 

私の夢は、軍艦島で日本一の鉱山技師になる事でした。

今更炭鉱をはなれ、三菱系列の未知の他部門で生甲斐を感じられるのだろうか? 


自己の技術活かせる転進先はあるのだろうか?

 

転職する場合 中途採用では、当然ながら年令には制限がある筈、既に37歳の私でも大丈夫だろうか?

苦渋の決断を迫られる日々が始まりました。

 

結局、端島の古老M氏の叱咤激励を受け、家族の同意を得て、私は転職の道を選ぶ事にしました。

其れは、高島砿業所で体験した坑内冷房の技術を基礎に、再度 一から勉強して、空調技師に転進する道でした。

 

私は後ろ髪引かれる思いで転勤を辞退して、転職する道を選び、昭和45年9月20日、三菱軍艦島を退職しました。今から48年前の事で、端島の思い出は今も尽きません。

 

(6)軍艦島 退艦後の私 (後日談)

 

退職後の私は、家族を伴い福岡に引揚げ、失業保険を貰いながら、

空調設備士の資格をとり、母校とも相談の結果、産業用空調の世界に飛び込みました。

 

そして原子力発電所の建設工事、特に原子炉周りの空調を主体とする仕事に携りました。

北は北海道電力、南は九州電力、四国電力、

そして関西電力、更に日本原電と、各原子力発電所の建設工事、メインテナンスに関わってきました。

 

炭鉱から原子力に転進で共通するのは、いずれも日本のエネルギー産業にかかわった事でした。

これも一重に高島、端島で培った技術のお陰だと心から感謝申し上げる次第です。

 

軍艦島は結局、私が退艦して34ヶ月後、昭和49年(1974年)1月に閉山しました

私はその時九州電力玄海原子力発電所1号機で、空調工事の現地責任者を務めており、

閉山の報に接した時、万感胸に迫るものがありました。

 

そして閉山廃鉱後、無人島となった端島の写真集や、各調査資料が発刊される度に、

本屋に足を運んでは、我が宝物として買い求めました。

 

閉山から41年後の平成27(2015) 7月にあの端島が、なんと世界遺産に登録されました。

片時も忘れた事もない端島の栄光に対しわが事の様に感激し感涙に咽び、乾杯しました。

大好きな端島 万歳 万歳 そして万歳 !!

 

この声が不思議な御縁で、神戸は高野山真言宗西方院の坂井住職のお耳に達し、

檀家有志を募り軍艦島見学を企画されて、私も招かれ3061248年ぶりに軍艦島に上陸しました

往昔の方々の幻とお帰りの声が私を取り囲み、私は暫しの間、50年前の自分に立ち戻ってました。

感動のひと時を御住職に感謝!


平成30年(2018年)826日 記      松浦邦雄(853か月


本人略歴:

昭和8(1933) 56日、旧朝鮮 全羅南道木浦府幸町2-4 で誕生

昭和20(1945)10月 敗戦で家族と共に日本に引揚げ 本籍の小倉に

昭和273月吉日  福岡県立小倉高等学校卒業

昭和333月吉日  早稲田大第一理工学部 鉱山学科卒業

昭和3341日  三菱鉱業株式会社入社、高島砿業所赴任 高島砿勤務

昭和36年10月22日 牧野弥生嬢と結婚

昭和40101日  高島砿から端島砿に所内移動

昭和41年12月6日  長男“正弥”誕生

昭和45920日  三菱端島砿 退職

昭和473月    新菱冷熱工業株式会社入社 原子力部神戸事務所配属

昭和47年10月   九州電力玄海1号機建設工事現場所長

昭和50年2月    関西電力大飯1・2号機建設工事現場所長

昭和53年3月    神戸事務所に復帰 工事課長に昇格

昭和59年12月    取締役 原子力部工事部長に就任

昭和60年5月   高野山奥の院に松浦家之墓を建立、(菩提寺は金剛三昧院

平成5年12月 関連会社 新菱製作所取締役社長に就任、冷熱本社監査役兼務

平成11年6月 社長退任後、新菱冷熱本社非常勤監査役として在籍

平成1212月 新菱冷熱本社 非常勤監査役退任

平成166  高野山内の金剛三昧院3箇所が世界文化遺産に登録された

平成26年10月 高野山金剛三昧院境内に“長崎軍艦島元採炭技師 松浦邦雄

の名儀で 世界遺産記念奉祝石碑を建立(世界遺産維持費の一部応分のお布施

平成27年7月 軍艦島の世界文化遺産登録決定に 高野山と重ね合わせ感涙

(1)昭和33年当時の軍艦島

私こと、松浦邦雄は、昭和33年4月1日三菱鉱業(株)に入社、本社教育を受けた後、

直ちに採炭技師として、長崎港外に在る高島砿業所に赴任を命ぜられました。

 

高島砿業所は、高島砿と端島砿(軍艦島)からなる海底炭鉱でした。

当時の石炭業界は、全盛期を過ぎたとは言え、まだ炭坑節の“月が出た出た”の余勢があり、

石油の進出に対抗すべく、スクラップアンドビルドの合理化を推進中でした。

 

三菱鉱業の場合、九州では、高島砿業所がビルド鉱として積極的な設備投資の下、

筑豊地区のスクラップ鉱からの配転従業員の受け皿になりました。

 

筑豊炭が燃料用の一般炭だったのに対し、高島地区の石炭は高品質、

高カロリーの原料炭で、石油に対抗できる商品でした。

特に端島炭は、売れ筋のブランド品でした。

 

原料炭の豊富な埋蔵量を抱えた高島砿業所は、正に不沈空母でしたが、

当時の端島砿の採炭区域は、海面下800mと高島砿に比べ深く、高温多湿、然も炭層が急傾斜している為、

採炭機械の導入には、多くの壁がありました。

 

高島砿は、機械化が容易な地層に恵まれ、

ホーベルやドラムカッターといった最新式の採炭機械の導入が逐次行われて、

生産性の向上や安全作業に貢献していました。



(2)昭和
39年の事故で軍艦島ドック入り

 

私は高島砿業所着任後、半年間に高島・端島両砿の現場でみっちりと実習を受け、

同時に必要な国家試験資格も取得し、高島砿の採炭の第一線で働く事になりました。

 

入社当時、私は高島の清和寮と言う独身合宿に入居しておりましたが、

丘の上に建てられた合宿から、端島がくっきり展望され、

特に夜景の独特の美しさに、強く惹かれておりました。

 

私はある意味で往昔の軍国少年で、軍艦の勇姿に胸を時めかせてきましたので、

端島の写真を見て、是非乗艦してみたい気持が高ぶっておりました。

 

実は、学生時代の鉱山見学や実習で、端島に関する知識は充分把握しており、

軍艦島の存在が三菱入社希望の一因でもあったのです。

 

それで着任後、早速 端島勤務を願い出たのですが、

高島砿で、じっくり勉強してからでも遅くないからと助言があり、

若手社員として、先ずは炭鉱近代化を進める技術の習得に熱中しました。

 

その間不幸にして、端島砿は昭和398月に坑内深部の炭層が自然発火し炎上した為

当時の採炭区域は水没放棄され、一時生産中断のやむなきに至り


先行して開発を進めて来た三ツ瀬沖区域に、急ぎ生産拠点を移す事になりました。


(3)昭和
4011月 軍艦島復旧戦列へ

三ツ瀬区域の埋蔵量は、当時の生産規模で10年強程度でしたが、炭層は海面下

350mレベルと浅く、傾斜も比較的緩やかで、

高島並に採炭現場は安全な鉄柱(油圧式)・鉄梁(カッぺ)、

ドラムカッター採炭機械の使用が可能になりました。

 

併行して端島沖区域の開発も始まり、三ツ瀬区域後に備える事となっていました。

そして端島砿は昭和4011月、三ツ瀬沖区域で採炭が再開され

之に伴い10月に高島から技術者達が、新生端島砿に移動勤務したのです。

 

私もその一員に選ばれ、正に血湧き肉躍る心地でした。

高島着任後7年半の事でした。

実は、私事ながら昭和36年10月26日に結婚し、高島の新金堀社宅に入居していましたが、

この間子宝に恵まれず、内心焦っていました。

 

環境が変わればとの期待感もあり、喜び勇んで軍艦島に乗艦しました。

そして8号社宅に入居して1年2ヶ月後、昭和41126日私達に長男が誕生

軍艦島のご利益には、本当に感謝感激しました。

 

蛇足ながら、命名に時間を掛け “はしま” ゆかりの名前を考えたのですが

“末馬” 以外に該当する漢字が見つからず、競馬の尻馬では拙いとの声で、

已む無く母と妻の名から1字ヅツ拝借、“正弥”と言う事にしました。

 

母と妻は大喜びでしたが、私は “松浦端島” にしておけば良かったなあと、今だにこだわってます。


(4)順風満帆 軍艦島での日常生活

端島での仕事は順調で楽しく、採炭現場の責任者として生甲斐を感じる日々を送る事が出来ました。

 

4年後には仕事と兼務ながらも、当番制で職員組合長も拝命し、

公私共に充実した生活が出来た事を、今も神仏に感謝しています。

 

端島は長崎港外とはいえ、東シナ海の海上にあり、風次第では波しぶきも高くて連絡船の欠航が多く、

対岸の野母半島からの魚菜舟の行商人が足止めを食うなど、生活面で不便を感じる面もありましたが、

島の中自体の日常生活は水道、電気などインフラ設備は安定していました。

 

端島の敷地面積は、島全体を取り囲む防波岸壁の上で、

煙草に点火し、一めぐりした時に丁度燃え尽きる程度の広さでした。

岸壁の長さは約1km強でした。

 

防波岸壁の内側には売店は勿論、

映画館はじめ、小中学校、病院、神社、お寺、警察官駐在所にいたるまで、

小柄ながらも形を揃え、イベント会場というか、映画のセットに似た雰囲気があり、今も愛着を感じています。

 

戦後間もない昭和23年、映画“緑なき島”のロケ地になったとも聞いています。

人口は昭和35年の5,267人に比べると、40年は3,400人程で35%近く減っていましたが、

その分社宅も広く改造され、住民の表情にも明るさがありました。

 

当然ながら、都会で見かける物乞いの“おこもさん”の姿もなく、

端島も炭住街らしく、昔ながらに向こう三軒両隣り、多くの世帯が家庭電化生活を満喫、

お互いが助け合う「全島一家」のムードに溢れていました。

 

職場の雰囲気もその延長線上にあり、採炭現場(切羽)から上がって入浴し、

炭塵を落とした後は、各家庭に押掛けて、ノミニケーションの場が展開するという良好な人間関係が、

生産性の向上にも寄与してくれました。

 

労働組合も、高島が総評の最先鋭の炭労傘下にあり、“三菱が潰れても高島は残る“とのスローガンのもと、

職場闘争や会社側との対決姿勢を鮮明にしていたのに対し、

端島労組は全炭鉱系に属して比較的柔軟な話合いの姿勢を示してくれ、係員を吊し上げるなど、

職場にイデオロギーを持ち込むトゲトゲした雰囲気は無く、仕事を円滑に進める事が出来ました。

 

石炭の生産量も、機械化による少数精鋭で月間3万5千トン台を記録するなど、

採炭再開後は島全体が活況に満ち、端島で一番いい時期を体感出来ました。

 

(5)新規区域開発中止で退艦の憂き目に

 

端島着任4年後、私は現場業務から計画企画業務に携る事になりました。

坑務課長の側近として重要事項にも触れる機会も多くなり、現場とは別の緊張感の毎日を過しました。

 

一番衝撃を受けたのは、海面下―600mで掘進中の、端島沖区域探炭坑道が断層破砕帯に遭遇、

落盤に加え多量の出水で、前進を阻まれる事態になりました。

 

かろうじて突破したものの、再び破砕帯に遭遇、

行く手を阻まれ工事は大幅に遅延、更に不運な事は、各調査結果炭層位置が当初予想よりも深く、

1000mレベルと分り、開発は絶望視されるに至りました。

 

端島沖区域は、現三ツ瀬区域以降につながる端島の生命線だっただけに、

あと数年の砿命に到った事で、私にとっても、これは正に青天の霹靂でした。

 

この重大な事実は一時期伏せられたものの、現場の開発グループが縮小した事で、

従業員の間にも、薄々端島沖区域開発工事断念の噂が広まりました。

 

会社も昭和45年3月末、組合に対し、開発工事中止の経緯を説明する事になりました。

以降 従業員が端島に見切りをつけ、離島する風潮が加速しました。

 

当時の日本は高度成長期に入っており、人材を求め鉱山以外の産業界から引く手あまたという状況でした。

 

端島砿もそのあおりを受け人手が不足し、縮小体制に入らざるを得なくなりました。

実は端島と心中する覚悟だった私にも、内内転勤の打診があり、少なからずショックを受けました。

 

私の夢は、軍艦島で日本一の鉱山技師になる事でした。

今更炭鉱をはなれ、三菱系列の未知の他部門で生甲斐を感じられるのだろうか? 


自己の技術活かせる転進先はあるのだろうか?

 

転職する場合 中途採用では、当然ながら年令には制限がある筈、既に37歳の私でも大丈夫だろうか?

苦渋の決断を迫られる日々が始まりました。

 

結局、端島の古老M氏の叱咤激励を受け、家族の同意を得て、私は転職の道を選ぶ事にしました。

其れは、高島砿業所で体験した坑内冷房の技術を基礎に、再度 一から勉強して、空調技師に転進する道でした。

 

私は後ろ髪引かれる思いで転勤を辞退して、転職する道を選び、昭和45年9月20日、三菱軍艦島を退職しました。今から48年前の事で、端島の思い出は今も尽きません。

 

(6)軍艦島 退艦後の私 (後日談)

 

退職後の私は、家族を伴い福岡に引揚げ、失業保険を貰いながら、

空調設備士の資格をとり、母校とも相談の結果、産業用空調の世界に飛び込みました。

 

そして原子力発電所の建設工事、特に原子炉周りの空調を主体とする仕事に携りました。

北は北海道電力、南は九州電力、四国電力、

そして関西電力、更に日本原電と、各原子力発電所の建設工事、メインテナンスに関わってきました。

 

炭鉱から原子力に転進で共通するのは、いずれも日本のエネルギー産業にかかわった事でした。

これも一重に高島、端島で培った技術のお陰だと心から感謝申し上げる次第です。

 

軍艦島は結局、私が退艦して34ヶ月後、昭和49年(1974年)1月に閉山しました

私はその時九州電力玄海原子力発電所1号機で、空調工事の現地責任者を務めており、

閉山の報に接した時、万感胸に迫るものがありました。

 

そして閉山廃鉱後、無人島となった端島の写真集や、各調査資料が発刊される度に、

本屋に足を運んでは、我が宝物として買い求めました。

 

閉山から41年後の平成27(2015) 7月にあの端島が、なんと世界遺産に登録されました。

片時も忘れた事もない端島の栄光に対しわが事の様に感激し感涙に咽び、乾杯しました。

大好きな端島 万歳 万歳 そして万歳 !!

 

この声が不思議な御縁で、神戸は高野山真言宗西方院の坂井住職のお耳に達し、

檀家有志を募り軍艦島見学を企画されて、私も招かれ3061248年ぶりに軍艦島に上陸しました

往昔の方々の幻とお帰りの声が私を取り囲み、私は暫しの間、50年前の自分に立ち戻ってました。

感動のひと時を御住職に感謝!


平成30年(2018年)826日 記      松浦邦雄(853か月


本人略歴:

昭和8(1933) 56日、旧朝鮮 全羅南道木浦府幸町2-4 で誕生

昭和20(1945)10月 敗戦で家族と共に日本に引揚げ 本籍の小倉に

昭和273月吉日  福岡県立小倉高等学校卒業

昭和333月吉日  早稲田大第一理工学部 鉱山学科卒業

昭和3341日  三菱鉱業株式会社入社、高島砿業所赴任 高島砿勤務

昭和36年10月22日 牧野弥生嬢と結婚

昭和40101日  高島砿から端島砿に所内移動

昭和41年12月6日  長男“正弥”誕生

昭和45920日  三菱端島砿 退職

昭和473月    新菱冷熱工業株式会社入社 原子力部神戸事務所配属

昭和47年10月   九州電力玄海1号機建設工事現場所長

昭和50年2月    関西電力大飯1・2号機建設工事現場所長

昭和53年3月    神戸事務所に復帰 工事課長に昇格

昭和59年12月    取締役 原子力部工事部長に就任

昭和60年5月   高野山奥の院に松浦家之墓を建立、(菩提寺は金剛三昧院

平成5年12月 関連会社 新菱製作所取締役社長に就任、冷熱本社監査役兼務

平成11年6月 社長退任後、新菱冷熱本社非常勤監査役として在籍

平成1212月 新菱冷熱本社 非常勤監査役退任

平成166  高野山内の金剛三昧院3箇所が世界文化遺産に登録された

平成26年10月 高野山金剛三昧院境内に“長崎軍艦島元採炭技師 松浦邦雄

の名儀で 世界遺産記念奉祝石碑を建立(世界遺産維持費の一部応分のお布施

平成27年7月 軍艦島の世界文化遺産登録決定に 高野山と重ね合わせ感涙

(1)昭和33年当時の軍艦島

私こと、松浦邦雄は、昭和33年4月1日三菱鉱業(株)に入社、本社教育を受けた後、

直ちに採炭技師として、長崎港外に在る高島砿業所に赴任を命ぜられました。

 

高島砿業所は、高島砿と端島砿(軍艦島)からなる海底炭鉱でした。

当時の石炭業界は、全盛期を過ぎたとは言え、まだ炭坑節の“月が出た出た”の余勢があり、

石油の進出に対抗すべく、スクラップアンドビルドの合理化を推進中でした。

 

三菱鉱業の場合、九州では、高島砿業所がビルド鉱として積極的な設備投資の下、

筑豊地区のスクラップ鉱からの配転従業員の受け皿になりました。

 

筑豊炭が燃料用の一般炭だったのに対し、高島地区の石炭は高品質、

高カロリーの原料炭で、石油に対抗できる商品でした。

特に端島炭は、売れ筋のブランド品でした。

 

原料炭の豊富な埋蔵量を抱えた高島砿業所は、正に不沈空母でしたが、

当時の端島砿の採炭区域は、海面下800mと高島砿に比べ深く、高温多湿、然も炭層が急傾斜している為、

採炭機械の導入には、多くの壁がありました。

 

高島砿は、機械化が容易な地層に恵まれ、

ホーベルやドラムカッターといった最新式の採炭機械の導入が逐次行われて、

生産性の向上や安全作業に貢献していました。



(2)昭和
39年の事故で軍艦島ドック入り

 

私は高島砿業所着任後、半年間に高島・端島両砿の現場でみっちりと実習を受け、

同時に必要な国家試験資格も取得し、高島砿の採炭の第一線で働く事になりました。

 

入社当時、私は高島の清和寮と言う独身合宿に入居しておりましたが、

丘の上に建てられた合宿から、端島がくっきり展望され、

特に夜景の独特の美しさに、強く惹かれておりました。

 

私はある意味で往昔の軍国少年で、軍艦の勇姿に胸を時めかせてきましたので、

端島の写真を見て、是非乗艦してみたい気持が高ぶっておりました。

 

実は、学生時代の鉱山見学や実習で、端島に関する知識は充分把握しており、

軍艦島の存在が三菱入社希望の一因でもあったのです。

 

それで着任後、早速 端島勤務を願い出たのですが、

高島砿で、じっくり勉強してからでも遅くないからと助言があり、

若手社員として、先ずは炭鉱近代化を進める技術の習得に熱中しました。

 

その間不幸にして、端島砿は昭和398月に坑内深部の炭層が自然発火し炎上した為

当時の採炭区域は水没放棄され、一時生産中断のやむなきに至り


先行して開発を進めて来た三ツ瀬沖区域に、急ぎ生産拠点を移す事になりました。


(3)昭和
4011月 軍艦島復旧戦列へ

三ツ瀬区域の埋蔵量は、当時の生産規模で10年強程度でしたが、炭層は海面下

350mレベルと浅く、傾斜も比較的緩やかで、

高島並に採炭現場は安全な鉄柱(油圧式)・鉄梁(カッぺ)、

ドラムカッター採炭機械の使用が可能になりました。

 

併行して端島沖区域の開発も始まり、三ツ瀬区域後に備える事となっていました。

そして端島砿は昭和4011月、三ツ瀬沖区域で採炭が再開され

之に伴い10月に高島から技術者達が、新生端島砿に移動勤務したのです。

 

私もその一員に選ばれ、正に血湧き肉躍る心地でした。

高島着任後7年半の事でした。

実は、私事ながら昭和36年10月26日に結婚し、高島の新金堀社宅に入居していましたが、

この間子宝に恵まれず、内心焦っていました。

 

環境が変わればとの期待感もあり、喜び勇んで軍艦島に乗艦しました。

そして8号社宅に入居して1年2ヶ月後、昭和41126日私達に長男が誕生

軍艦島のご利益には、本当に感謝感激しました。

 

蛇足ながら、命名に時間を掛け “はしま” ゆかりの名前を考えたのですが

“末馬” 以外に該当する漢字が見つからず、競馬の尻馬では拙いとの声で、

已む無く母と妻の名から1字ヅツ拝借、“正弥”と言う事にしました。

 

母と妻は大喜びでしたが、私は “松浦端島” にしておけば良かったなあと、今だにこだわってます。


(4)順風満帆 軍艦島での日常生活

端島での仕事は順調で楽しく、採炭現場の責任者として生甲斐を感じる日々を送る事が出来ました。

 

4年後には仕事と兼務ながらも、当番制で職員組合長も拝命し、

公私共に充実した生活が出来た事を、今も神仏に感謝しています。

 

端島は長崎港外とはいえ、東シナ海の海上にあり、風次第では波しぶきも高くて連絡船の欠航が多く、

対岸の野母半島からの魚菜舟の行商人が足止めを食うなど、生活面で不便を感じる面もありましたが、

島の中自体の日常生活は水道、電気などインフラ設備は安定していました。

 

端島の敷地面積は、島全体を取り囲む防波岸壁の上で、

煙草に点火し、一めぐりした時に丁度燃え尽きる程度の広さでした。

岸壁の長さは約1km強でした。

 

防波岸壁の内側には売店は勿論、

映画館はじめ、小中学校、病院、神社、お寺、警察官駐在所にいたるまで、

小柄ながらも形を揃え、イベント会場というか、映画のセットに似た雰囲気があり、今も愛着を感じています。

 

戦後間もない昭和23年、映画“緑なき島”のロケ地になったとも聞いています。

人口は昭和35年の5,267人に比べると、40年は3,400人程で35%近く減っていましたが、

その分社宅も広く改造され、住民の表情にも明るさがありました。

 

当然ながら、都会で見かける物乞いの“おこもさん”の姿もなく、

端島も炭住街らしく、昔ながらに向こう三軒両隣り、多くの世帯が家庭電化生活を満喫、

お互いが助け合う「全島一家」のムードに溢れていました。

 

職場の雰囲気もその延長線上にあり、採炭現場(切羽)から上がって入浴し、

炭塵を落とした後は、各家庭に押掛けて、ノミニケーションの場が展開するという良好な人間関係が、

生産性の向上にも寄与してくれました。

 

労働組合も、高島が総評の最先鋭の炭労傘下にあり、“三菱が潰れても高島は残る“とのスローガンのもと、

職場闘争や会社側との対決姿勢を鮮明にしていたのに対し、

端島労組は全炭鉱系に属して比較的柔軟な話合いの姿勢を示してくれ、係員を吊し上げるなど、

職場にイデオロギーを持ち込むトゲトゲした雰囲気は無く、仕事を円滑に進める事が出来ました。

 

石炭の生産量も、機械化による少数精鋭で月間3万5千トン台を記録するなど、

採炭再開後は島全体が活況に満ち、端島で一番いい時期を体感出来ました。

 

(5)新規区域開発中止で退艦の憂き目に

 

端島着任4年後、私は現場業務から計画企画業務に携る事になりました。

坑務課長の側近として重要事項にも触れる機会も多くなり、現場とは別の緊張感の毎日を過しました。

 

一番衝撃を受けたのは、海面下―600mで掘進中の、端島沖区域探炭坑道が断層破砕帯に遭遇、

落盤に加え多量の出水で、前進を阻まれる事態になりました。

 

かろうじて突破したものの、再び破砕帯に遭遇、

行く手を阻まれ工事は大幅に遅延、更に不運な事は、各調査結果炭層位置が当初予想よりも深く、

1000mレベルと分り、開発は絶望視されるに至りました。

 

端島沖区域は、現三ツ瀬区域以降につながる端島の生命線だっただけに、

あと数年の砿命に到った事で、私にとっても、これは正に青天の霹靂でした。

 

この重大な事実は一時期伏せられたものの、現場の開発グループが縮小した事で、

従業員の間にも、薄々端島沖区域開発工事断念の噂が広まりました。

 

会社も昭和45年3月末、組合に対し、開発工事中止の経緯を説明する事になりました。

以降 従業員が端島に見切りをつけ、離島する風潮が加速しました。

 

当時の日本は高度成長期に入っており、人材を求め鉱山以外の産業界から引く手あまたという状況でした。

 

端島砿もそのあおりを受け人手が不足し、縮小体制に入らざるを得なくなりました。

実は端島と心中する覚悟だった私にも、内内転勤の打診があり、少なからずショックを受けました。

 

私の夢は、軍艦島で日本一の鉱山技師になる事でした。

今更炭鉱をはなれ、三菱系列の未知の他部門で生甲斐を感じられるのだろうか? 


自己の技術活かせる転進先はあるのだろうか?

 

転職する場合 中途採用では、当然ながら年令には制限がある筈、既に37歳の私でも大丈夫だろうか?

苦渋の決断を迫られる日々が始まりました。

 

結局、端島の古老M氏の叱咤激励を受け、家族の同意を得て、私は転職の道を選ぶ事にしました。

其れは、高島砿業所で体験した坑内冷房の技術を基礎に、再度 一から勉強して、空調技師に転進する道でした。

 

私は後ろ髪引かれる思いで転勤を辞退して、転職する道を選び、昭和45年9月20日、三菱軍艦島を退職しました。今から48年前の事で、端島の思い出は今も尽きません。

 

(6)軍艦島 退艦後の私 (後日談)

 

退職後の私は、家族を伴い福岡に引揚げ、失業保険を貰いながら、

空調設備士の資格をとり、母校とも相談の結果、産業用空調の世界に飛び込みました。

 

そして原子力発電所の建設工事、特に原子炉周りの空調を主体とする仕事に携りました。

北は北海道電力、南は九州電力、四国電力、

そして関西電力、更に日本原電と、各原子力発電所の建設工事、メインテナンスに関わってきました。

 

炭鉱から原子力に転進で共通するのは、いずれも日本のエネルギー産業にかかわった事でした。

これも一重に高島、端島で培った技術のお陰だと心から感謝申し上げる次第です。

 

軍艦島は結局、私が退艦して34ヶ月後、昭和49年(1974年)1月に閉山しました

私はその時九州電力玄海原子力発電所1号機で、空調工事の現地責任者を務めており、

閉山の報に接した時、万感胸に迫るものがありました。

 

そして閉山廃鉱後、無人島となった端島の写真集や、各調査資料が発刊される度に、

本屋に足を運んでは、我が宝物として買い求めました。

 

閉山から41年後の平成27(2015) 7月にあの端島が、なんと世界遺産に登録されました。

片時も忘れた事もない端島の栄光に対しわが事の様に感激し感涙に咽び、乾杯しました。

大好きな端島 万歳 万歳 そして万歳 !!

 

この声が不思議な御縁で、神戸は高野山真言宗西方院の坂井住職のお耳に達し、

檀家有志を募り軍艦島見学を企画されて、私も招かれ3061248年ぶりに軍艦島に上陸しました

往昔の方々の幻とお帰りの声が私を取り囲み、私は暫しの間、50年前の自分に立ち戻ってました。

感動のひと時を御住職に感謝!


平成30年(2018年)826日 記      松浦邦雄(853か月


本人略歴:

昭和8(1933) 56日、旧朝鮮 全羅南道木浦府幸町2-4 で誕生

昭和20(1945)10月 敗戦で家族と共に日本に引揚げ 本籍の小倉に

昭和273月吉日  福岡県立小倉高等学校卒業

昭和333月吉日  早稲田大第一理工学部 鉱山学科卒業

昭和3341日  三菱鉱業株式会社入社、高島砿業所赴任 高島砿勤務

昭和36年10月22日 牧野弥生嬢と結婚

昭和40101日  高島砿から端島砿に所内移動

昭和41年12月6日  長男“正弥”誕生

昭和45920日  三菱端島砿 退職

昭和473月    新菱冷熱工業株式会社入社 原子力部神戸事務所配属

昭和47年10月   九州電力玄海1号機建設工事現場所長

昭和50年2月    関西電力大飯1・2号機建設工事現場所長

昭和53年3月    神戸事務所に復帰 工事課長に昇格

昭和59年12月    取締役 原子力部工事部長に就任

昭和60年5月   高野山奥の院に松浦家之墓を建立、(菩提寺は金剛三昧院

平成5年12月 関連会社 新菱製作所取締役社長に就任、冷熱本社監査役兼務

平成11年6月 社長退任後、新菱冷熱本社非常勤監査役として在籍

平成1212月 新菱冷熱本社 非常勤監査役退任

平成166  高野山内の金剛三昧院3箇所が世界文化遺産に登録された

平成26年10月 高野山金剛三昧院境内に“長崎軍艦島元採炭技師 松浦邦雄

の名儀で 世界遺産記念奉祝石碑を建立(世界遺産維持費の一部応分のお布施

平成27年7月 軍艦島の世界文化遺産登録決定に 高野山と重ね合わせ感涙

(1)昭和33年当時の軍艦島

私こと、松浦邦雄は、昭和33年4月1日三菱鉱業(株)に入社、本社教育を受けた後、

直ちに採炭技師として、長崎港外に在る高島砿業所に赴任を命ぜられました。

 

高島砿業所は、高島砿と端島砿(軍艦島)からなる海底炭鉱でした。

当時の石炭業界は、全盛期を過ぎたとは言え、まだ炭坑節の“月が出た出た”の余勢があり、

石油の進出に対抗すべく、スクラップアンドビルドの合理化を推進中でした。

 

三菱鉱業の場合、九州では、高島砿業所がビルド鉱として積極的な設備投資の下、

筑豊地区のスクラップ鉱からの配転従業員の受け皿になりました。

 

筑豊炭が燃料用の一般炭だったのに対し、高島地区の石炭は高品質、

高カロリーの原料炭で、石油に対抗できる商品でした。

特に端島炭は、売れ筋のブランド品でした。

 

原料炭の豊富な埋蔵量を抱えた高島砿業所は、正に不沈空母でしたが、

当時の端島砿の採炭区域は、海面下800mと高島砿に比べ深く、高温多湿、然も炭層が急傾斜している為、

採炭機械の導入には、多くの壁がありました。

 

高島砿は、機械化が容易な地層に恵まれ、

ホーベルやドラムカッターといった最新式の採炭機械の導入が逐次行われて、

生産性の向上や安全作業に貢献していました。



(2)昭和
39年の事故で軍艦島ドック入り

 

私は高島砿業所着任後、半年間に高島・端島両砿の現場でみっちりと実習を受け、

同時に必要な国家試験資格も取得し、高島砿の採炭の第一線で働く事になりました。

 

入社当時、私は高島の清和寮と言う独身合宿に入居しておりましたが、

丘の上に建てられた合宿から、端島がくっきり展望され、

特に夜景の独特の美しさに、強く惹かれておりました。

 

私はある意味で往昔の軍国少年で、軍艦の勇姿に胸を時めかせてきましたので、

端島の写真を見て、是非乗艦してみたい気持が高ぶっておりました。

 

実は、学生時代の鉱山見学や実習で、端島に関する知識は充分把握しており、

軍艦島の存在が三菱入社希望の一因でもあったのです。

 

それで着任後、早速 端島勤務を願い出たのですが、

高島砿で、じっくり勉強してからでも遅くないからと助言があり、

若手社員として、先ずは炭鉱近代化を進める技術の習得に熱中しました。

 

その間不幸にして、端島砿は昭和398月に坑内深部の炭層が自然発火し炎上した為

当時の採炭区域は水没放棄され、一時生産中断のやむなきに至り


先行して開発を進めて来た三ツ瀬沖区域に、急ぎ生産拠点を移す事になりました。


(3)昭和
4011月 軍艦島復旧戦列へ

三ツ瀬区域の埋蔵量は、当時の生産規模で10年強程度でしたが、炭層は海面下

350mレベルと浅く、傾斜も比較的緩やかで、

高島並に採炭現場は安全な鉄柱(油圧式)・鉄梁(カッぺ)、

ドラムカッター採炭機械の使用が可能になりました。

 

併行して端島沖区域の開発も始まり、三ツ瀬区域後に備える事となっていました。

そして端島砿は昭和4011月、三ツ瀬沖区域で採炭が再開され

之に伴い10月に高島から技術者達が、新生端島砿に移動勤務したのです。

 

私もその一員に選ばれ、正に血湧き肉躍る心地でした。

高島着任後7年半の事でした。

実は、私事ながら昭和36年10月26日に結婚し、高島の新金堀社宅に入居していましたが、

この間子宝に恵まれず、内心焦っていました。

 

環境が変わればとの期待感もあり、喜び勇んで軍艦島に乗艦しました。

そして8号社宅に入居して1年2ヶ月後、昭和41126日私達に長男が誕生

軍艦島のご利益には、本当に感謝感激しました。

 

蛇足ながら、命名に時間を掛け “はしま” ゆかりの名前を考えたのですが

“末馬” 以外に該当する漢字が見つからず、競馬の尻馬では拙いとの声で、

已む無く母と妻の名から1字ヅツ拝借、“正弥”と言う事にしました。

 

母と妻は大喜びでしたが、私は “松浦端島” にしておけば良かったなあと、今だにこだわってます。


(4)順風満帆 軍艦島での日常生活

端島での仕事は順調で楽しく、採炭現場の責任者として生甲斐を感じる日々を送る事が出来ました。

 

4年後には仕事と兼務ながらも、当番制で職員組合長も拝命し、

公私共に充実した生活が出来た事を、今も神仏に感謝しています。

 

端島は長崎港外とはいえ、東シナ海の海上にあり、風次第では波しぶきも高くて連絡船の欠航が多く、

対岸の野母半島からの魚菜舟の行商人が足止めを食うなど、生活面で不便を感じる面もありましたが、

島の中自体の日常生活は水道、電気などインフラ設備は安定していました。

 

端島の敷地面積は、島全体を取り囲む防波岸壁の上で、

煙草に点火し、一めぐりした時に丁度燃え尽きる程度の広さでした。

岸壁の長さは約1km強でした。

 

防波岸壁の内側には売店は勿論、

映画館はじめ、小中学校、病院、神社、お寺、警察官駐在所にいたるまで、

小柄ながらも形を揃え、イベント会場というか、映画のセットに似た雰囲気があり、今も愛着を感じています。

 

戦後間もない昭和23年、映画“緑なき島”のロケ地になったとも聞いています。

人口は昭和35年の5,267人に比べると、40年は3,400人程で35%近く減っていましたが、

その分社宅も広く改造され、住民の表情にも明るさがありました。

 

当然ながら、都会で見かける物乞いの“おこもさん”の姿もなく、

端島も炭住街らしく、昔ながらに向こう三軒両隣り、多くの世帯が家庭電化生活を満喫、

お互いが助け合う「全島一家」のムードに溢れていました。

 

職場の雰囲気もその延長線上にあり、採炭現場(切羽)から上がって入浴し、

炭塵を落とした後は、各家庭に押掛けて、ノミニケーションの場が展開するという良好な人間関係が、

生産性の向上にも寄与してくれました。

 

労働組合も、高島が総評の最先鋭の炭労傘下にあり、“三菱が潰れても高島は残る“とのスローガンのもと、

職場闘争や会社側との対決姿勢を鮮明にしていたのに対し、

端島労組は全炭鉱系に属して比較的柔軟な話合いの姿勢を示してくれ、係員を吊し上げるなど、

職場にイデオロギーを持ち込むトゲトゲした雰囲気は無く、仕事を円滑に進める事が出来ました。

 

石炭の生産量も、機械化による少数精鋭で月間3万5千トン台を記録するなど、

採炭再開後は島全体が活況に満ち、端島で一番いい時期を体感出来ました。

 

(5)新規区域開発中止で退艦の憂き目に

 

端島着任4年後、私は現場業務から計画企画業務に携る事になりました。

坑務課長の側近として重要事項にも触れる機会も多くなり、現場とは別の緊張感の毎日を過しました。

 

一番衝撃を受けたのは、海面下―600mで掘進中の、端島沖区域探炭坑道が断層破砕帯に遭遇、

落盤に加え多量の出水で、前進を阻まれる事態になりました。

 

かろうじて突破したものの、再び破砕帯に遭遇、

行く手を阻まれ工事は大幅に遅延、更に不運な事は、各調査結果炭層位置が当初予想よりも深く、

1000mレベルと分り、開発は絶望視されるに至りました。

 

端島沖区域は、現三ツ瀬区域以降につながる端島の生命線だっただけに、

あと数年の砿命に到った事で、私にとっても、これは正に青天の霹靂でした。

 

この重大な事実は一時期伏せられたものの、現場の開発グループが縮小した事で、

従業員の間にも、薄々端島沖区域開発工事断念の噂が広まりました。

 

会社も昭和45年3月末、組合に対し、開発工事中止の経緯を説明する事になりました。

以降 従業員が端島に見切りをつけ、離島する風潮が加速しました。

 

当時の日本は高度成長期に入っており、人材を求め鉱山以外の産業界から引く手あまたという状況でした。

 

端島砿もそのあおりを受け人手が不足し、縮小体制に入らざるを得なくなりました。

実は端島と心中する覚悟だった私にも、内内転勤の打診があり、少なからずショックを受けました。

 

私の夢は、軍艦島で日本一の鉱山技師になる事でした。

今更炭鉱をはなれ、三菱系列の未知の他部門で生甲斐を感じられるのだろうか? 


自己の技術活かせる転進先はあるのだろうか?

 

転職する場合 中途採用では、当然ながら年令には制限がある筈、既に37歳の私でも大丈夫だろうか?

苦渋の決断を迫られる日々が始まりました。

 

結局、端島の古老M氏の叱咤激励を受け、家族の同意を得て、私は転職の道を選ぶ事にしました。

其れは、高島砿業所で体験した坑内冷房の技術を基礎に、再度 一から勉強して、空調技師に転進する道でした。

 

私は後ろ髪引かれる思いで転勤を辞退して、転職する道を選び、昭和45年9月20日、三菱軍艦島を退職しました。今から48年前の事で、端島の思い出は今も尽きません。

 

(6)軍艦島 退艦後の私 (後日談)

 

退職後の私は、家族を伴い福岡に引揚げ、失業保険を貰いながら、

空調設備士の資格をとり、母校とも相談の結果、産業用空調の世界に飛び込みました。

 

そして原子力発電所の建設工事、特に原子炉周りの空調を主体とする仕事に携りました。

北は北海道電力、南は九州電力、四国電力、

そして関西電力、更に日本原電と、各原子力発電所の建設工事、メインテナンスに関わってきました。

 

炭鉱から原子力に転進で共通するのは、いずれも日本のエネルギー産業にかかわった事でした。

これも一重に高島、端島で培った技術のお陰だと心から感謝申し上げる次第です。

 

軍艦島は結局、私が退艦して34ヶ月後、昭和49年(1974年)1月に閉山しました

私はその時九州電力玄海原子力発電所1号機で、空調工事の現地責任者を務めており、

閉山の報に接した時、万感胸に迫るものがありました。

 

そして閉山廃鉱後、無人島となった端島の写真集や、各調査資料が発刊される度に、

本屋に足を運んでは、我が宝物として買い求めました。

 

閉山から41年後の平成27(2015) 7月にあの端島が、なんと世界遺産に登録されました。

片時も忘れた事もない端島の栄光に対しわが事の様に感激し感涙に咽び、乾杯しました。

大好きな端島 万歳 万歳 そして万歳 !!

 

この声が不思議な御縁で、神戸は高野山真言宗西方院の坂井住職のお耳に達し、

檀家有志を募り軍艦島見学を企画されて、私も招かれ3061248年ぶりに軍艦島に上陸しました

往昔の方々の幻とお帰りの声が私を取り囲み、私は暫しの間、50年前の自分に立ち戻ってました。

感動のひと時を御住職に感謝!


平成30年(2018年)826日 記      松浦邦雄(853か月


本人略歴:

昭和8(1933) 56日、旧朝鮮 全羅南道木浦府幸町2-4 で誕生

昭和20(1945)10月 敗戦で家族と共に日本に引揚げ 本籍の小倉に

昭和273月吉日  福岡県立小倉高等学校卒業

昭和333月吉日  早稲田大第一理工学部 鉱山学科卒業

昭和3341日  三菱鉱業株式会社入社、高島砿業所赴任 高島砿勤務

昭和36年10月22日 牧野弥生嬢と結婚

昭和40101日  高島砿から端島砿に所内移動

昭和41年12月6日  長男“正弥”誕生

昭和45920日  三菱端島砿 退職

昭和473月    新菱冷熱工業株式会社入社 原子力部神戸事務所配属

昭和47年10月   九州電力玄海1号機建設工事現場所長

昭和50年2月    関西電力大飯1・2号機建設工事現場所長

昭和53年3月    神戸事務所に復帰 工事課長に昇格

昭和59年12月    取締役 原子力部工事部長に就任

昭和60年5月   高野山奥の院に松浦家之墓を建立、(菩提寺は金剛三昧院

平成5年12月 関連会社 新菱製作所取締役社長に就任、冷熱本社監査役兼務

平成11年6月 社長退任後、新菱冷熱本社非常勤監査役として在籍

平成1212月 新菱冷熱本社 非常勤監査役退任

平成166  高野山内の金剛三昧院3箇所が世界文化遺産に登録された

平成26年10月 高野山金剛三昧院境内に“長崎軍艦島元採炭技師 松浦邦雄

の名儀で 世界遺産記念奉祝石碑を建立(世界遺産維持費の一部応分のお布施

平成27年7月 軍艦島の世界文化遺産登録決定に 高野山と重ね合わせ感涙

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