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    小嶋 明「 端島で生まれ、閉山を見届ける 」

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    小嶋 明「 端島で生まれ、閉山を見届ける 」

2019/02/16

小嶋 明「 端島で生まれ、閉山を見届ける 」

小嶋 明「 端島で生まれ、閉山を見届ける 」

小嶋 明「 端島で生まれ、閉山を見届ける 」

小嶋 明「 端島で生まれ、閉山を見届ける 」

2018年6月17日、朝から快晴。

福岡を6時に出て予定より1時間早く着いたので

ミュージアムの館内を見学していると乗船の時間になりました。


端島は、生まれて24年間育ったところです。

1974年2月に島を離れて、もう来られないと思っていましたが

たまたまインターネットで軍艦島デジタルミュージアムの事を知り、

夕顔丸の最終便の切符を寄贈したのが縁で、久しぶりに故郷に帰る事ができました。


船内は満席で、あっという間に軍艦島に着きました。


島にあるプールを見た時、色々な事を思い出しました。

子供のころ、夏は泳ぎ、冬にはローラースケートで遊びました。

プールには思い出がいっぱい詰まっています。

それから、夕顔丸の機関室の油と

石炭の混ざり合った臭い、船酔い、

1時間30分かかる長崎までの道のりなど様々な思い出が蘇りました。


昭和25年の落盤事故で父を亡くし、

母が厚生食堂で働きながら、

女手ひとつで私たち4人兄弟を育ててくれました。

当時の母の事を考えると、とても大変だったと思います。

私たち兄弟のご飯は、母が働く厚生食堂のまかないや、

近所の方が「ご飯食べにおいで。」と声をかけて食べさせてくれていました。

どれも懐かしい思い出です。



中学卒業と同時に島を離れ、美容師を目指しました。

1年間美容学校に通い、
その後、長崎の夕月というカレー屋さんの近くの

明星美粧院というところに住み込みで働きました。

2年経った頃、上京して三菱自動車に入社しました。

4年間勤めておりましたが、

故郷の端島が閉山する事を知り、帰郷することにしました。


当時、母はまだ島に残り厚生食堂で働いていました。

同級生も端島炭鉱で働いていたので、自分も故郷を知りたいという思いで

仕事を探してもらい入社、坑内電気を頼みました。


まず入坑所に行き伝票を提出し、

日付がある印鑑と名前と番号がある木札をもらいます。

前日に充電していたキャップランプを木札と交換して受付がおわり、

作業着に着替えます。腰にはバンドの跡が残るくらい重くなります。


電気の事務所に行き名札を返し、時間まで待ちます。

昇降機で地下まで蛍光灯が点灯していて

気温は18度、湿度は90%くらい、年間同じでした。

本坑道(電車が運行している)から切り羽まで坂道を約300m上まで歩いて行きます。

ここまで約1時間30分かかります。


海底から50mの所が石炭を掘っている場所になります。

海水が降ってきているのでビショビショになり、

石炭を運ぶ為にはベルトコンベアーが必要ですので

電気ケーブル(長さ300m×80mm)を切り羽まで、坑道の足元は泥濘で、

足を取られて泥だらけになりながら、敷く事が仕事でした。


その他に電気ケーブルの切断補修や、

電話機の修理、電車のメンテナンスなど電気が付くもの全てでした。

毎日が楽しかったです。

仕事が好きで、1日に16時間、月に30日は働いた事もあり、

好きなだけ稼いでいました(笑)


坑内には災害に備えて電話機と無線機器もあります。

坑内に入ると無線機で何名入抗したか見張り所に連絡します。


メルカプタンというタマネギが腐った異臭を空気中に流して行う避難訓練や、

坑内のトイレ、水事情など、たくさんの思い出があります。


端島では、昭和48年12月31日まで働きました。

翌年の1月15日に端島炭坑は閉山し、

それから島を出る2月27日まで

再就職する為、兵庫、岡山などに面接に行った事を思い出します。

楽しい思い出ばかりです。


写真を撮るのが趣味で、カメラは小さい頃から持っており

石炭運搬船が壊れたときや

こじまあきらさま

泉福寺の裏の木造住宅が火事になったときにも写真を撮りました。

こじまあきらさま



そして、閉山から30年経った55歳のときに

端島小中学校同窓生の皆と一緒に里帰りとして端島に上陸しました。

学校も病院もボロボロで衝撃でした。

とても悲しかったのを覚えています。


故郷に帰ると、やっぱり「いいなぁ。」と思います。

正直いうと自分の故郷なのに自由に帰れなくなり、

遠い存在になってしまったように感じるので

世界遺産にはなって欲しくありませんでした。

しかし、今は、端島に生まれ、端島で働き、

閉山を見届けることができたことを誇りに思います。







小嶋 明 プロフィール

こじまあきらさん

昭和23年12月4日端島に生まれる(30号棟の7階)

22歳で端島に帰郷し

24歳までの2年間、坑内電気に務める。





2018年6月17日、朝から快晴。

福岡を6時に出て予定より1時間早く着いたので

ミュージアムの館内を見学していると乗船の時間になりました。


端島は、生まれて24年間育ったところです。

1974年2月に島を離れて、もう来られないと思っていましたが

たまたまインターネットで軍艦島デジタルミュージアムの事を知り、

夕顔丸の最終便の切符を寄贈したのが縁で、久しぶりに故郷に帰る事ができました。


船内は満席で、あっという間に軍艦島に着きました。


島にあるプールを見た時、色々な事を思い出しました。

子供のころ、夏は泳ぎ、冬にはローラースケートで遊びました。

プールには思い出がいっぱい詰まっています。

それから、夕顔丸の機関室の油と

石炭の混ざり合った臭い、船酔い、

1時間30分かかる長崎までの道のりなど様々な思い出が蘇りました。


昭和25年の落盤事故で父を亡くし、

母が厚生食堂で働きながら、

女手ひとつで私たち4人兄弟を育ててくれました。

当時の母の事を考えると、とても大変だったと思います。

私たち兄弟のご飯は、母が働く厚生食堂のまかないや、

近所の方が「ご飯食べにおいで。」と声をかけて食べさせてくれていました。

どれも懐かしい思い出です。



中学卒業と同時に島を離れ、美容師を目指しました。

1年間美容学校に通い、
その後、長崎の夕月というカレー屋さんの近くの

明星美粧院というところに住み込みで働きました。

2年経った頃、上京して三菱自動車に入社しました。

4年間勤めておりましたが、

故郷の端島が閉山する事を知り、帰郷することにしました。


当時、母はまだ島に残り厚生食堂で働いていました。

同級生も端島炭鉱で働いていたので、自分も故郷を知りたいという思いで

仕事を探してもらい入社、坑内電気を頼みました。


まず入坑所に行き伝票を提出し、

日付がある印鑑と名前と番号がある木札をもらいます。

前日に充電していたキャップランプを木札と交換して受付がおわり、

作業着に着替えます。腰にはバンドの跡が残るくらい重くなります。


電気の事務所に行き名札を返し、時間まで待ちます。

昇降機で地下まで蛍光灯が点灯していて

気温は18度、湿度は90%くらい、年間同じでした。

本坑道(電車が運行している)から切り羽まで坂道を約300m上まで歩いて行きます。

ここまで約1時間30分かかります。


海底から50mの所が石炭を掘っている場所になります。

海水が降ってきているのでビショビショになり、

石炭を運ぶ為にはベルトコンベアーが必要ですので

電気ケーブル(長さ300m×80mm)を切り羽まで、坑道の足元は泥濘で、

足を取られて泥だらけになりながら、敷く事が仕事でした。


その他に電気ケーブルの切断補修や、

電話機の修理、電車のメンテナンスなど電気が付くもの全てでした。

毎日が楽しかったです。

仕事が好きで、1日に16時間、月に30日は働いた事もあり、

好きなだけ稼いでいました(笑)


坑内には災害に備えて電話機と無線機器もあります。

坑内に入ると無線機で何名入抗したか見張り所に連絡します。


メルカプタンというタマネギが腐った異臭を空気中に流して行う避難訓練や、

坑内のトイレ、水事情など、たくさんの思い出があります。


端島では、昭和48年12月31日まで働きました。

翌年の1月15日に端島炭坑は閉山し、

それから島を出る2月27日まで

再就職する為、兵庫、岡山などに面接に行った事を思い出します。

楽しい思い出ばかりです。


写真を撮るのが趣味で、カメラは小さい頃から持っており

石炭運搬船が壊れたときや

こじまあきらさま

泉福寺の裏の木造住宅が火事になったときにも写真を撮りました。

こじまあきらさま



そして、閉山から30年経った55歳のときに

端島小中学校同窓生の皆と一緒に里帰りとして端島に上陸しました。

学校も病院もボロボロで衝撃でした。

とても悲しかったのを覚えています。


故郷に帰ると、やっぱり「いいなぁ。」と思います。

正直いうと自分の故郷なのに自由に帰れなくなり、

遠い存在になってしまったように感じるので

世界遺産にはなって欲しくありませんでした。

しかし、今は、端島に生まれ、端島で働き、

閉山を見届けることができたことを誇りに思います。







小嶋 明 プロフィール

こじまあきらさん

昭和23年12月4日端島に生まれる(30号棟の7階)

22歳で端島に帰郷し

24歳までの2年間、坑内電気に務める。





2018年6月17日、朝から快晴。

福岡を6時に出て予定より1時間早く着いたので

ミュージアムの館内を見学していると乗船の時間になりました。


端島は、生まれて24年間育ったところです。

1974年2月に島を離れて、もう来られないと思っていましたが

たまたまインターネットで軍艦島デジタルミュージアムの事を知り、

夕顔丸の最終便の切符を寄贈したのが縁で、久しぶりに故郷に帰る事ができました。


船内は満席で、あっという間に軍艦島に着きました。


島にあるプールを見た時、色々な事を思い出しました。

子供のころ、夏は泳ぎ、冬にはローラースケートで遊びました。

プールには思い出がいっぱい詰まっています。

それから、夕顔丸の機関室の油と

石炭の混ざり合った臭い、船酔い、

1時間30分かかる長崎までの道のりなど様々な思い出が蘇りました。


昭和25年の落盤事故で父を亡くし、

母が厚生食堂で働きながら、

女手ひとつで私たち4人兄弟を育ててくれました。

当時の母の事を考えると、とても大変だったと思います。

私たち兄弟のご飯は、母が働く厚生食堂のまかないや、

近所の方が「ご飯食べにおいで。」と声をかけて食べさせてくれていました。

どれも懐かしい思い出です。



中学卒業と同時に島を離れ、美容師を目指しました。

1年間美容学校に通い、
その後、長崎の夕月というカレー屋さんの近くの

明星美粧院というところに住み込みで働きました。

2年経った頃、上京して三菱自動車に入社しました。

4年間勤めておりましたが、

故郷の端島が閉山する事を知り、帰郷することにしました。


当時、母はまだ島に残り厚生食堂で働いていました。

同級生も端島炭鉱で働いていたので、自分も故郷を知りたいという思いで

仕事を探してもらい入社、坑内電気を頼みました。


まず入坑所に行き伝票を提出し、

日付がある印鑑と名前と番号がある木札をもらいます。

前日に充電していたキャップランプを木札と交換して受付がおわり、

作業着に着替えます。腰にはバンドの跡が残るくらい重くなります。


電気の事務所に行き名札を返し、時間まで待ちます。

昇降機で地下まで蛍光灯が点灯していて

気温は18度、湿度は90%くらい、年間同じでした。

本坑道(電車が運行している)から切り羽まで坂道を約300m上まで歩いて行きます。

ここまで約1時間30分かかります。


海底から50mの所が石炭を掘っている場所になります。

海水が降ってきているのでビショビショになり、

石炭を運ぶ為にはベルトコンベアーが必要ですので

電気ケーブル(長さ300m×80mm)を切り羽まで、坑道の足元は泥濘で、

足を取られて泥だらけになりながら、敷く事が仕事でした。


その他に電気ケーブルの切断補修や、

電話機の修理、電車のメンテナンスなど電気が付くもの全てでした。

毎日が楽しかったです。

仕事が好きで、1日に16時間、月に30日は働いた事もあり、

好きなだけ稼いでいました(笑)


坑内には災害に備えて電話機と無線機器もあります。

坑内に入ると無線機で何名入抗したか見張り所に連絡します。


メルカプタンというタマネギが腐った異臭を空気中に流して行う避難訓練や、

坑内のトイレ、水事情など、たくさんの思い出があります。


端島では、昭和48年12月31日まで働きました。

翌年の1月15日に端島炭坑は閉山し、

それから島を出る2月27日まで

再就職する為、兵庫、岡山などに面接に行った事を思い出します。

楽しい思い出ばかりです。


写真を撮るのが趣味で、カメラは小さい頃から持っており

石炭運搬船が壊れたときや

こじまあきらさま

泉福寺の裏の木造住宅が火事になったときにも写真を撮りました。

こじまあきらさま



そして、閉山から30年経った55歳のときに

端島小中学校同窓生の皆と一緒に里帰りとして端島に上陸しました。

学校も病院もボロボロで衝撃でした。

とても悲しかったのを覚えています。


故郷に帰ると、やっぱり「いいなぁ。」と思います。

正直いうと自分の故郷なのに自由に帰れなくなり、

遠い存在になってしまったように感じるので

世界遺産にはなって欲しくありませんでした。

しかし、今は、端島に生まれ、端島で働き、

閉山を見届けることができたことを誇りに思います。







小嶋 明 プロフィール

こじまあきらさん

昭和23年12月4日端島に生まれる(30号棟の7階)

22歳で端島に帰郷し

24歳までの2年間、坑内電気に務める。





2018年6月17日、朝から快晴。

福岡を6時に出て予定より1時間早く着いたので

ミュージアムの館内を見学していると乗船の時間になりました。


端島は、生まれて24年間育ったところです。

1974年2月に島を離れて、もう来られないと思っていましたが

たまたまインターネットで軍艦島デジタルミュージアムの事を知り、

夕顔丸の最終便の切符を寄贈したのが縁で、久しぶりに故郷に帰る事ができました。


船内は満席で、あっという間に軍艦島に着きました。


島にあるプールを見た時、色々な事を思い出しました。

子供のころ、夏は泳ぎ、冬にはローラースケートで遊びました。

プールには思い出がいっぱい詰まっています。

それから、夕顔丸の機関室の油と

石炭の混ざり合った臭い、船酔い、

1時間30分かかる長崎までの道のりなど様々な思い出が蘇りました。


昭和25年の落盤事故で父を亡くし、

母が厚生食堂で働きながら、

女手ひとつで私たち4人兄弟を育ててくれました。

当時の母の事を考えると、とても大変だったと思います。

私たち兄弟のご飯は、母が働く厚生食堂のまかないや、

近所の方が「ご飯食べにおいで。」と声をかけて食べさせてくれていました。

どれも懐かしい思い出です。



中学卒業と同時に島を離れ、美容師を目指しました。

1年間美容学校に通い、
その後、長崎の夕月というカレー屋さんの近くの

明星美粧院というところに住み込みで働きました。

2年経った頃、上京して三菱自動車に入社しました。

4年間勤めておりましたが、

故郷の端島が閉山する事を知り、帰郷することにしました。


当時、母はまだ島に残り厚生食堂で働いていました。

同級生も端島炭鉱で働いていたので、自分も故郷を知りたいという思いで

仕事を探してもらい入社、坑内電気を頼みました。


まず入坑所に行き伝票を提出し、

日付がある印鑑と名前と番号がある木札をもらいます。

前日に充電していたキャップランプを木札と交換して受付がおわり、

作業着に着替えます。腰にはバンドの跡が残るくらい重くなります。


電気の事務所に行き名札を返し、時間まで待ちます。

昇降機で地下まで蛍光灯が点灯していて

気温は18度、湿度は90%くらい、年間同じでした。

本坑道(電車が運行している)から切り羽まで坂道を約300m上まで歩いて行きます。

ここまで約1時間30分かかります。


海底から50mの所が石炭を掘っている場所になります。

海水が降ってきているのでビショビショになり、

石炭を運ぶ為にはベルトコンベアーが必要ですので

電気ケーブル(長さ300m×80mm)を切り羽まで、坑道の足元は泥濘で、

足を取られて泥だらけになりながら、敷く事が仕事でした。


その他に電気ケーブルの切断補修や、

電話機の修理、電車のメンテナンスなど電気が付くもの全てでした。

毎日が楽しかったです。

仕事が好きで、1日に16時間、月に30日は働いた事もあり、

好きなだけ稼いでいました(笑)


坑内には災害に備えて電話機と無線機器もあります。

坑内に入ると無線機で何名入抗したか見張り所に連絡します。


メルカプタンというタマネギが腐った異臭を空気中に流して行う避難訓練や、

坑内のトイレ、水事情など、たくさんの思い出があります。


端島では、昭和48年12月31日まで働きました。

翌年の1月15日に端島炭坑は閉山し、

それから島を出る2月27日まで

再就職する為、兵庫、岡山などに面接に行った事を思い出します。

楽しい思い出ばかりです。


写真を撮るのが趣味で、カメラは小さい頃から持っており

石炭運搬船が壊れたときや

こじまあきらさま

泉福寺の裏の木造住宅が火事になったときにも写真を撮りました。

こじまあきらさま



そして、閉山から30年経った55歳のときに

端島小中学校同窓生の皆と一緒に里帰りとして端島に上陸しました。

学校も病院もボロボロで衝撃でした。

とても悲しかったのを覚えています。


故郷に帰ると、やっぱり「いいなぁ。」と思います。

正直いうと自分の故郷なのに自由に帰れなくなり、

遠い存在になってしまったように感じるので

世界遺産にはなって欲しくありませんでした。

しかし、今は、端島に生まれ、端島で働き、

閉山を見届けることができたことを誇りに思います。







小嶋 明 プロフィール

こじまあきらさん

昭和23年12月4日端島に生まれる(30号棟の7階)

22歳で端島に帰郷し

24歳までの2年間、坑内電気に務める。





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