
COLUMN元島民コラム
2019/04/24
石川 東「端島小中学校同窓会」
石川 東「端島小中学校同窓会」
石川 東「端島小中学校同窓会」
石川 東「端島小中学校同窓会」
私は、「端島小中学校同窓会」で二代目会長を務めています。
今回は、同窓会での取り組みや、これまでについてお話ししたいと思います。
端島(軍艦島)が無人島になって45年になります。
端島に住んでいた人たちは昭和49(1974)年の炭鉱の閉山から、たった3カ月で島を離れて全国に散らばっていったのです。
それから数年後、端島に住んだことがある人達が一堂に集まることが出来るよう「全国端島会」が結成されました。
炭鉱で働いていた人はもちろん、学校の教員や商店で働いていた人たちも会員として登録され、
10年に一度集まることになったのです。
閉山10周年の時には、船をチャーターして端島の外周を回り、高島で懇親会が開かれました。
その後、閉山20周年、25周年の集まりがあり、30周年の集まりで最後と言っていましたが、35周年まで開催されました。
この35周年が「全国端島会」の最後の集まりになり、当初は150人の参加希望でしたが、実際には300人ほどが集まりました。
この時の閉会の挨拶で、みんな高齢になってきたので端島会としての集会をするのは今回が最後であると端島会の解散が表明され、
あとは若い人たちによる会を結成して、その集まりに年配の方々も参加できるようにしようと取り決めがありました。
若い人の集まりは「同窓会」をつくることで話し合いがもたれ、2010年「端島小中学校同窓会」が設立されました。
まず私は、同窓会名簿作りにかかりました。
名簿作りといっても、すでに閉山から35年が経過しており、おまけに端島にはもう誰も住んでいません。
どこから手をつけようか考えていたところ、戦後にも端島同窓会はあったようで、先輩方の名簿に出会いました。
明治27年の第1回卒業生から終戦時頃までの卒業名簿が、先輩の努力ですでに出来ていたのです。
これには大変助けられました。
各学年のお世話係を頼りに、名簿を集めていきました。
名前を調べるため、高島町役場へいき、端島の卒業名簿が無いか訊ねましたが、役場にはなく高島中学校を訪ねました。
しかし、学校には2年分の卒業名簿しかありませんでした。学籍名簿も少しありましたので双方を書き写しました。
教員については県立図書館へ行き長崎県の教職員名簿の戦後分を毎年度分見せていただき書き写してきました。
地道に、一件ずつ名簿を集めていき、パソコンで整理しました。
同窓会を結成した年(2010年)に「第1回同窓会」を実施することも決めておりましたので、その準備も同時進行でした。
明治26年11月3日、端島小学校は三菱の社立小学校として開校されたので、同窓会も11月3日頃にするように決めました。
同窓会をするからには端島に渡って学校まで行きたいということで、長崎市へ上陸許可をお願いしました。
学校は立ち入り禁止区域にあるため、長崎市の許可が必要だったからです。
同窓会の案内状は、会長名と各学年の世話役の連名で、世話役にその学年の住所と氏名を記入してもらい送付しました。
毎回そのようにしております。
同窓会が結成されて約10年になりますが、まだ全ての方にご案内できていないと思います。
同窓会は、端島の学校に在籍したことがある方も、名簿に記載しております。
昭和39年の炭鉱ガス爆発により合理化があり、島民2000人程度が端島を離れていきました。
その方たちも名簿に記載したいと思っています。
第2回同窓会の折、同窓会名簿を作りました。
その時の判明率は約40%でしたが、今では50%の判明率となっており、戦後だけでは60%になっております。
昭和1ケタ時代の卒業生の消息が分かればさらに判明率は高くなります。これからの私の努力目標です。
又、閉校当時の小学生の名簿も記載したいと思っておりますので、知っている方がいたら教えていただければありがたいです。
昭和49年に学校は閉校となりました。同窓生は増えることはありません。
みんな歳をとってあの世に行くのですから減少するばかりです。
当初は3年に一度の開催だった同窓会も、今は2年に1度になりました。
前回参加した人でも次回は他界している人もいます。
私は歳をとっても、端島時代のことをよく覚えております。
しかし、家族ではもう端島のことは話さなくなってしまいました。
私は今、ミュージアムで語り部として活動しておりますが、訪ねてきてくださった元島民の方々は、
懐かしく昔のことを思い出して話してくれます。
端島出身の皆様、同窓会に参加して、昔の良いことも悪かったことも話しましょうよ。気持ちが若返りますよ。
同窓会は、短期でも端島に住んだことがある方は参加できます。
今年が開催の年になっており、役員会で11月3日に開催することになりました。
これを読んだ方は両親・兄弟を誘って参加してください。
また配偶者や子供、孫を連れて家族に端島を見せ、自分がここで育ったこと、学んだこと、
そして世界遺産であることを話してあげてはいかがですか。
フェイスブックに「端島小中学校同窓会」を立ち上げております。
同窓会からのお知らせやお願いを記載しております。
読まれた方は端島出身の仲間にも伝えていただければ幸いです。よろしくお願いします。
「端島小中学校同窓会 Facebook」
https://www.facebook.com/端島小中学校同窓会-230938014141066/
《石川 東 (いしかわ あずま)プロフィール》
1945年宮崎県生まれ
生まれてから18年間端島で暮らす
端島小中学校同窓会会長を務める
また、軍艦島デジタルミュージアムでガイドとして活躍している
私は、「端島小中学校同窓会」で二代目会長を務めています。
今回は、同窓会での取り組みや、これまでについてお話ししたいと思います。
端島(軍艦島)が無人島になって45年になります。
端島に住んでいた人たちは昭和49(1974)年の炭鉱の閉山から、たった3カ月で島を離れて全国に散らばっていったのです。
それから数年後、端島に住んだことがある人達が一堂に集まることが出来るよう「全国端島会」が結成されました。
炭鉱で働いていた人はもちろん、学校の教員や商店で働いていた人たちも会員として登録され、
10年に一度集まることになったのです。
閉山10周年の時には、船をチャーターして端島の外周を回り、高島で懇親会が開かれました。
その後、閉山20周年、25周年の集まりがあり、30周年の集まりで最後と言っていましたが、35周年まで開催されました。
この35周年が「全国端島会」の最後の集まりになり、当初は150人の参加希望でしたが、実際には300人ほどが集まりました。
この時の閉会の挨拶で、みんな高齢になってきたので端島会としての集会をするのは今回が最後であると端島会の解散が表明され、
あとは若い人たちによる会を結成して、その集まりに年配の方々も参加できるようにしようと取り決めがありました。
若い人の集まりは「同窓会」をつくることで話し合いがもたれ、2010年「端島小中学校同窓会」が設立されました。
まず私は、同窓会名簿作りにかかりました。
名簿作りといっても、すでに閉山から35年が経過しており、おまけに端島にはもう誰も住んでいません。
どこから手をつけようか考えていたところ、戦後にも端島同窓会はあったようで、先輩方の名簿に出会いました。
明治27年の第1回卒業生から終戦時頃までの卒業名簿が、先輩の努力ですでに出来ていたのです。
これには大変助けられました。
各学年のお世話係を頼りに、名簿を集めていきました。
名前を調べるため、高島町役場へいき、端島の卒業名簿が無いか訊ねましたが、役場にはなく高島中学校を訪ねました。
しかし、学校には2年分の卒業名簿しかありませんでした。学籍名簿も少しありましたので双方を書き写しました。
教員については県立図書館へ行き長崎県の教職員名簿の戦後分を毎年度分見せていただき書き写してきました。
地道に、一件ずつ名簿を集めていき、パソコンで整理しました。
同窓会を結成した年(2010年)に「第1回同窓会」を実施することも決めておりましたので、その準備も同時進行でした。
明治26年11月3日、端島小学校は三菱の社立小学校として開校されたので、同窓会も11月3日頃にするように決めました。
同窓会をするからには端島に渡って学校まで行きたいということで、長崎市へ上陸許可をお願いしました。
学校は立ち入り禁止区域にあるため、長崎市の許可が必要だったからです。
同窓会の案内状は、会長名と各学年の世話役の連名で、世話役にその学年の住所と氏名を記入してもらい送付しました。
毎回そのようにしております。
同窓会が結成されて約10年になりますが、まだ全ての方にご案内できていないと思います。
同窓会は、端島の学校に在籍したことがある方も、名簿に記載しております。
昭和39年の炭鉱ガス爆発により合理化があり、島民2000人程度が端島を離れていきました。
その方たちも名簿に記載したいと思っています。
第2回同窓会の折、同窓会名簿を作りました。
その時の判明率は約40%でしたが、今では50%の判明率となっており、戦後だけでは60%になっております。
昭和1ケタ時代の卒業生の消息が分かればさらに判明率は高くなります。これからの私の努力目標です。
又、閉校当時の小学生の名簿も記載したいと思っておりますので、知っている方がいたら教えていただければありがたいです。
昭和49年に学校は閉校となりました。同窓生は増えることはありません。
みんな歳をとってあの世に行くのですから減少するばかりです。
当初は3年に一度の開催だった同窓会も、今は2年に1度になりました。
前回参加した人でも次回は他界している人もいます。
私は歳をとっても、端島時代のことをよく覚えております。
しかし、家族ではもう端島のことは話さなくなってしまいました。
私は今、ミュージアムで語り部として活動しておりますが、訪ねてきてくださった元島民の方々は、
懐かしく昔のことを思い出して話してくれます。
端島出身の皆様、同窓会に参加して、昔の良いことも悪かったことも話しましょうよ。気持ちが若返りますよ。
同窓会は、短期でも端島に住んだことがある方は参加できます。
今年が開催の年になっており、役員会で11月3日に開催することになりました。
これを読んだ方は両親・兄弟を誘って参加してください。
また配偶者や子供、孫を連れて家族に端島を見せ、自分がここで育ったこと、学んだこと、
そして世界遺産であることを話してあげてはいかがですか。
フェイスブックに「端島小中学校同窓会」を立ち上げております。
同窓会からのお知らせやお願いを記載しております。
読まれた方は端島出身の仲間にも伝えていただければ幸いです。よろしくお願いします。
「端島小中学校同窓会 Facebook」
https://www.facebook.com/端島小中学校同窓会-230938014141066/
《石川 東 (いしかわ あずま)プロフィール》
1945年宮崎県生まれ
生まれてから18年間端島で暮らす
端島小中学校同窓会会長を務める
また、軍艦島デジタルミュージアムでガイドとして活躍している
私は、「端島小中学校同窓会」で二代目会長を務めています。
今回は、同窓会での取り組みや、これまでについてお話ししたいと思います。
端島(軍艦島)が無人島になって45年になります。
端島に住んでいた人たちは昭和49(1974)年の炭鉱の閉山から、たった3カ月で島を離れて全国に散らばっていったのです。
それから数年後、端島に住んだことがある人達が一堂に集まることが出来るよう「全国端島会」が結成されました。
炭鉱で働いていた人はもちろん、学校の教員や商店で働いていた人たちも会員として登録され、
10年に一度集まることになったのです。
閉山10周年の時には、船をチャーターして端島の外周を回り、高島で懇親会が開かれました。
その後、閉山20周年、25周年の集まりがあり、30周年の集まりで最後と言っていましたが、35周年まで開催されました。
この35周年が「全国端島会」の最後の集まりになり、当初は150人の参加希望でしたが、実際には300人ほどが集まりました。
この時の閉会の挨拶で、みんな高齢になってきたので端島会としての集会をするのは今回が最後であると端島会の解散が表明され、
あとは若い人たちによる会を結成して、その集まりに年配の方々も参加できるようにしようと取り決めがありました。
若い人の集まりは「同窓会」をつくることで話し合いがもたれ、2010年「端島小中学校同窓会」が設立されました。
まず私は、同窓会名簿作りにかかりました。
名簿作りといっても、すでに閉山から35年が経過しており、おまけに端島にはもう誰も住んでいません。
どこから手をつけようか考えていたところ、戦後にも端島同窓会はあったようで、先輩方の名簿に出会いました。
明治27年の第1回卒業生から終戦時頃までの卒業名簿が、先輩の努力ですでに出来ていたのです。
これには大変助けられました。
各学年のお世話係を頼りに、名簿を集めていきました。
名前を調べるため、高島町役場へいき、端島の卒業名簿が無いか訊ねましたが、役場にはなく高島中学校を訪ねました。
しかし、学校には2年分の卒業名簿しかありませんでした。学籍名簿も少しありましたので双方を書き写しました。
教員については県立図書館へ行き長崎県の教職員名簿の戦後分を毎年度分見せていただき書き写してきました。
地道に、一件ずつ名簿を集めていき、パソコンで整理しました。
同窓会を結成した年(2010年)に「第1回同窓会」を実施することも決めておりましたので、その準備も同時進行でした。
明治26年11月3日、端島小学校は三菱の社立小学校として開校されたので、同窓会も11月3日頃にするように決めました。
同窓会をするからには端島に渡って学校まで行きたいということで、長崎市へ上陸許可をお願いしました。
学校は立ち入り禁止区域にあるため、長崎市の許可が必要だったからです。
同窓会の案内状は、会長名と各学年の世話役の連名で、世話役にその学年の住所と氏名を記入してもらい送付しました。
毎回そのようにしております。
同窓会が結成されて約10年になりますが、まだ全ての方にご案内できていないと思います。
同窓会は、端島の学校に在籍したことがある方も、名簿に記載しております。
昭和39年の炭鉱ガス爆発により合理化があり、島民2000人程度が端島を離れていきました。
その方たちも名簿に記載したいと思っています。
第2回同窓会の折、同窓会名簿を作りました。
その時の判明率は約40%でしたが、今では50%の判明率となっており、戦後だけでは60%になっております。
昭和1ケタ時代の卒業生の消息が分かればさらに判明率は高くなります。これからの私の努力目標です。
又、閉校当時の小学生の名簿も記載したいと思っておりますので、知っている方がいたら教えていただければありがたいです。
昭和49年に学校は閉校となりました。同窓生は増えることはありません。
みんな歳をとってあの世に行くのですから減少するばかりです。
当初は3年に一度の開催だった同窓会も、今は2年に1度になりました。
前回参加した人でも次回は他界している人もいます。
私は歳をとっても、端島時代のことをよく覚えております。
しかし、家族ではもう端島のことは話さなくなってしまいました。
私は今、ミュージアムで語り部として活動しておりますが、訪ねてきてくださった元島民の方々は、
懐かしく昔のことを思い出して話してくれます。
端島出身の皆様、同窓会に参加して、昔の良いことも悪かったことも話しましょうよ。気持ちが若返りますよ。
同窓会は、短期でも端島に住んだことがある方は参加できます。
今年が開催の年になっており、役員会で11月3日に開催することになりました。
これを読んだ方は両親・兄弟を誘って参加してください。
また配偶者や子供、孫を連れて家族に端島を見せ、自分がここで育ったこと、学んだこと、
そして世界遺産であることを話してあげてはいかがですか。
フェイスブックに「端島小中学校同窓会」を立ち上げております。
同窓会からのお知らせやお願いを記載しております。
読まれた方は端島出身の仲間にも伝えていただければ幸いです。よろしくお願いします。
「端島小中学校同窓会 Facebook」
https://www.facebook.com/端島小中学校同窓会-230938014141066/
《石川 東 (いしかわ あずま)プロフィール》
1945年宮崎県生まれ
生まれてから18年間端島で暮らす
端島小中学校同窓会会長を務める
また、軍艦島デジタルミュージアムでガイドとして活躍している
私は、「端島小中学校同窓会」で二代目会長を務めています。
今回は、同窓会での取り組みや、これまでについてお話ししたいと思います。
端島(軍艦島)が無人島になって45年になります。
端島に住んでいた人たちは昭和49(1974)年の炭鉱の閉山から、たった3カ月で島を離れて全国に散らばっていったのです。
それから数年後、端島に住んだことがある人達が一堂に集まることが出来るよう「全国端島会」が結成されました。
炭鉱で働いていた人はもちろん、学校の教員や商店で働いていた人たちも会員として登録され、
10年に一度集まることになったのです。
閉山10周年の時には、船をチャーターして端島の外周を回り、高島で懇親会が開かれました。
その後、閉山20周年、25周年の集まりがあり、30周年の集まりで最後と言っていましたが、35周年まで開催されました。
この35周年が「全国端島会」の最後の集まりになり、当初は150人の参加希望でしたが、実際には300人ほどが集まりました。
この時の閉会の挨拶で、みんな高齢になってきたので端島会としての集会をするのは今回が最後であると端島会の解散が表明され、
あとは若い人たちによる会を結成して、その集まりに年配の方々も参加できるようにしようと取り決めがありました。
若い人の集まりは「同窓会」をつくることで話し合いがもたれ、2010年「端島小中学校同窓会」が設立されました。
まず私は、同窓会名簿作りにかかりました。
名簿作りといっても、すでに閉山から35年が経過しており、おまけに端島にはもう誰も住んでいません。
どこから手をつけようか考えていたところ、戦後にも端島同窓会はあったようで、先輩方の名簿に出会いました。
明治27年の第1回卒業生から終戦時頃までの卒業名簿が、先輩の努力ですでに出来ていたのです。
これには大変助けられました。
各学年のお世話係を頼りに、名簿を集めていきました。
名前を調べるため、高島町役場へいき、端島の卒業名簿が無いか訊ねましたが、役場にはなく高島中学校を訪ねました。
しかし、学校には2年分の卒業名簿しかありませんでした。学籍名簿も少しありましたので双方を書き写しました。
教員については県立図書館へ行き長崎県の教職員名簿の戦後分を毎年度分見せていただき書き写してきました。
地道に、一件ずつ名簿を集めていき、パソコンで整理しました。
同窓会を結成した年(2010年)に「第1回同窓会」を実施することも決めておりましたので、その準備も同時進行でした。
明治26年11月3日、端島小学校は三菱の社立小学校として開校されたので、同窓会も11月3日頃にするように決めました。
同窓会をするからには端島に渡って学校まで行きたいということで、長崎市へ上陸許可をお願いしました。
学校は立ち入り禁止区域にあるため、長崎市の許可が必要だったからです。
同窓会の案内状は、会長名と各学年の世話役の連名で、世話役にその学年の住所と氏名を記入してもらい送付しました。
毎回そのようにしております。
同窓会が結成されて約10年になりますが、まだ全ての方にご案内できていないと思います。
同窓会は、端島の学校に在籍したことがある方も、名簿に記載しております。
昭和39年の炭鉱ガス爆発により合理化があり、島民2000人程度が端島を離れていきました。
その方たちも名簿に記載したいと思っています。
第2回同窓会の折、同窓会名簿を作りました。
その時の判明率は約40%でしたが、今では50%の判明率となっており、戦後だけでは60%になっております。
昭和1ケタ時代の卒業生の消息が分かればさらに判明率は高くなります。これからの私の努力目標です。
又、閉校当時の小学生の名簿も記載したいと思っておりますので、知っている方がいたら教えていただければありがたいです。
昭和49年に学校は閉校となりました。同窓生は増えることはありません。
みんな歳をとってあの世に行くのですから減少するばかりです。
当初は3年に一度の開催だった同窓会も、今は2年に1度になりました。
前回参加した人でも次回は他界している人もいます。
私は歳をとっても、端島時代のことをよく覚えております。
しかし、家族ではもう端島のことは話さなくなってしまいました。
私は今、ミュージアムで語り部として活動しておりますが、訪ねてきてくださった元島民の方々は、
懐かしく昔のことを思い出して話してくれます。
端島出身の皆様、同窓会に参加して、昔の良いことも悪かったことも話しましょうよ。気持ちが若返りますよ。
同窓会は、短期でも端島に住んだことがある方は参加できます。
今年が開催の年になっており、役員会で11月3日に開催することになりました。
これを読んだ方は両親・兄弟を誘って参加してください。
また配偶者や子供、孫を連れて家族に端島を見せ、自分がここで育ったこと、学んだこと、
そして世界遺産であることを話してあげてはいかがですか。
フェイスブックに「端島小中学校同窓会」を立ち上げております。
同窓会からのお知らせやお願いを記載しております。
読まれた方は端島出身の仲間にも伝えていただければ幸いです。よろしくお願いします。
「端島小中学校同窓会 Facebook」
https://www.facebook.com/端島小中学校同窓会-230938014141066/
《石川 東 (いしかわ あずま)プロフィール》
1945年宮崎県生まれ
生まれてから18年間端島で暮らす
端島小中学校同窓会会長を務める
また、軍艦島デジタルミュージアムでガイドとして活躍している