COLUMN元島民コラム

2019/06/09松浦 邦雄「夕顔丸の思い出」

・夕顔丸との出会い

私は、昭和33年4月1日、三菱鉱業(株)に入社、本社教育を受けた後、


高島砿業所勤務を命ぜられ、採炭技師として赴任の途につきました。

東京から寝台特急に揺られ眼が覚めると、そこは九州長崎でした。

高島は長崎港外にある為、長崎駅から社有連絡船が発着する小曾根町の炭坑社(船発着場)まで案内されました。

炭坑社(発着場)は、対岸に三菱長崎造船所のドッグが広がり、

背後の丘にはグラバー邸があるなど歴史に囲まれた位置にありました。

私はそこで夕顔丸と初対面したのです。

 

写真があれば説明しやすいのですが・・

夕顔丸の初印象は、やけに煙突が細長く、なんとも古めかしいスタイルの運搬船でした。

今時こんな船が連絡船だって? エッ!でした。


夕顔丸のスタイルは乗客を運ぶ連絡船というよりも運搬用の曳き船を三周りほど大きくした作業船という感じでした。

確かに客室らしき船室が操舵室の裏側に見えましたが・・

まずは乗り心地を確かめてからだと、思うほどなく、耳に鳴り響く汽笛一声、

そして胸に伝わる強い振動と共に、夕顔丸は黒煙を吐きながら、桟橋を離れ一路高島(端島)へ向け出帆。

港湾を出ると直ぐに外海で、進行左側に香焼島と野母半島、右に伊王島が見えて来ました。

幸い海は波静か、ズシン・ズシンの振動を体に受け止めながら、50分程で高島に無事到着。

東シナ海の風景に見惚れている間の、アッという間の短い航海でしたが、なんとなく親しみが湧き、

「これからお世話になります、今後とも宜しく」と手を振りながら下船しました。



・夕顔丸の生い立ちと働きぶり

後で知って驚いたのですが明治20年2月に三菱長崎造船所で建造された由、


しかも鉄製第1号船と聞き、エェッ!ホンマかいな?

私はこの歴史遺産に畏怖の念を抱きました。


竣工は同年5月で、当初は貨客船兼 団平船(石炭積載)の曳き舟として使用され、

長崎・高島(端島)間に定期船として就航したのは、昭和6年との事。

(ヤッパリ曳き舟やったんか!)

それが定期船として、今日まで70年以上も現役を続けていたとは・・恐れ入りやした!

夕顔丸は積載量200トンで、乗客定員500人、最大運行速度9ノットと聞かされました。


そうな オウチヤ明治バ生まれの長崎ジゲモンやったとネ!

バッテンなして、こげな歴史遺産が殿堂入りもせんト、まだ現役バ続けヨット?

もうヨカ年の爺ちゃんじゃなかトネ


明治当初の高性能が維持されていたからか?

でも老朽化で返って維持費は掛り過ぎてはいたのでは?

社有船は他に屋島丸・朝顔丸等があったのに・・と詮索してみたものの。

定年延長を続ける夕顔丸は何か特別の秘訣を持っているに違いないと感じました。

(一般的に定期船の耐用年数は、長くても50年と聞いていたのに)


古老に伺った話で、機動力を重宝がられ、連絡船以外の働きも勤め、島民の生活に貢献、島民に感謝され愛され続けたからとの事。

正に「余船を以って替え難し」だったんだ。



夕顔丸の想い出

いつも船客満杯の夕顔丸は、ノンビリとした速度で、ズシン・ズシンと心地よいリズムを船体に響かせながら白波を切り、


正に古き良き時代を象徴している風格を持っていました。

高島から島外に出掛ける場合は、島民の殆どの人が夕顔丸に乗船していました。

うろ覚えですが、夕顔丸の運航の合間を縫う様に、野母商船社の船便も有った様です。

長崎からの帰途は、座席を確保出来た安心感からか眠りについた方達、

もう高島(端島)に着いたも同然の表情で、話に夢中になっている連中、静かな読書家などで満杯でした。


勿論 私も慣れ親しんだ夕顔丸に乗って、

高島から長崎への往きはよいよい帰りは2日酔いと、夕顔丸に丸々おんぶに抱っこでした。

独身時代のいい想い出になっています。


私は結婚するまで、高島の船着場から程近い、徒歩10分程の小高い丘の上にある清和寮に住んでいましたが、

朝な夕なに夕顔丸の汽笛が届くと、自然と心が和むのをおぼえました。

そんな私ですから、長崎から夕顔丸に乗り込んだ時は、もう清和寮に着いたも同然の安心感で白河夕(顔)舟、

「大鼾を掻いとったぞ」といつも仲間から酒の肴にされていました。


私は昭和36年10月に本籍地小倉で結婚式を挙げ、新婚旅行を経由して、かみさんを高島に連れて戻りました。

勿論 長崎からは夕顔丸に乗せての事ですが、かみさんは目を丸くして、三菱マークの付いた細長い煙突を眺めていました。

どうやら 夕顔丸に愛着を感じたようでした。



夕顔丸との別れ

新婚半年後の昭和37年3月31日、夕顔丸は75年間の役割を終えて、引退する事になり、


島人達と別れを惜しみながら高島を一周しました。

私達も手をふり最後の姿を送りました。


同時に朝顔丸ほかの社有船も廃船になり、連絡船は野母商船の新造船「つや丸」「せい丸」に引き継がれました。

(両船とも昭和ッ子らしいスタイルで、速度もそこそこの客船でした)


夕顔丸は本来なら50才で定年退職のところ、75年もの間 本当によく頑張ってくれました。

夕顔丸と私とは僅か4年のお付合いでしたが、夕顔丸の懐かしい想い出は尽きません。

 

・後日談

私は、昭和45年9月20日、当時勤務していた三菱端島砿を退職し、鉱山技師から転じて空調技師(産業用)の道を進む事になりました。


そして昭和47年10月には、初仕事として九州電力玄海原子力発電所1号機の建設工事に参加しました。

私は空調会社新菱冷熱の社員で,元受会社は三菱重工業神戸造船所でした。


慣れぬ分野の仕事で三菱神戸現地作業所との太いパイプの繋がり無しには、工事の円滑な進展は望めず、

着工当初は悪戦苦闘の連続、私は太いパイプ造りに懸命の毎日でした。


何たる奇遇!現地作業所長のO氏は、過って夕顔丸の機関長を務めた経歴の方で、

私が高島砿業所で仕事をしていたと知ってからは、陰に陽に私をサポートしてくれたのです。


夕顔丸が取り持つ縁というのか、眼に見えない夕顔丸との絆に、私は感謝の毎日でした。

O所長は、私が昭和33年高島に着任時は、既に退船され三菱神戸の人になっていた様です。

O所長は、建設中に私を九電はじめ各社の重要ポストの方に紹介して頂く等、便宜を図って下さり、

また個人的には私と良き飲み友達になり、夕顔丸の想い話に花を咲かせました。

私はこの初仕事が順調に推移したお陰で、松浦丸はエンジン全開、中途入社の身としては予期せぬポストにまで登る事が出来ました。

夕顔丸のご利益に 今も感謝あるのみです。


転職直後の一時期 福岡にいた時の事ですが、自宅の離れで空調設備士の受験勉強中に、隣室でTVを見ていたかみさんが、

「おとうさん、来て見て、夕顔丸よ」と私を呼ぶのです。


どれどれとTVを覗き込むと、それは洋画の一場面で、夕顔丸に実によく似たかたちの船に乗ったヒーローを、

ヒロインが涙ながらに見送るところでした。


かみさんは、その船を見て夕顔丸を思い出し、重ね合わせて 懐かしく思ったのでしょう。

そのかみさんも 昨年母のあとを追う様に亡くなり、夕顔丸を知る人が又一人減りました。


実は 私の母は 平成29年7月26日 105才でこの世を去りましたが、

103才までは 私と花札遊びが出来た程で、医者も驚くお薬無用、元気な明治生まれの健康優老女でした。


母が大往生した時、良くぞここ迄!本当に打ち上げ花火で、野辺の送りをしてあげたい程の気持でした。

私は不思議にも 夕顔丸の引退時を思い浮かべ、母と重ね合わせました。


これも余談ですが、私の家は現在、新幹線西明石駅のホームから歩いて10分の場所にあるので、

東京駅から新幹線に乗った途端、もう我家に着いたも同然の安堵感からまた乾杯!

 

そして安心してグウグウ高鼾、眼が醒めた頃には 米原駅を通過し京都が早や間近に。

その時何故か、夕顔丸に乗っていた頃の気分になるのです。

あれ もう直ぐ 高島だ!


夕顔丸が廃船になってから、今年で56年経ちましたが、

何かにつけて夕顔丸を思い出すのは、夕顔丸が高島(端島)と共に今も私の心の中に生き続けている、何よりの証拠です。

今年85歳の私ですが、余生もあと僅かソロソロなどと自分勝手に決め付けずに、

夕顔丸の様に皆様の温かい励ましを受けて行けるところまで頑張る所存です。


神様、仏様、夕顔丸さま 本当に感謝しています

有難うございました!




三菱高島砿業所
 
元採炭技師  松浦邦雄

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