COLUMN元島民コラム

2019/07/19高崎(矢持)邦穂 「昭和20年前後の端島での生活」

◎大浦海岸通り

 軍艦島クルーズの船に乗船する桟橋は常盤ターミナル。

 大浦川に掛かる松ヶ枝橋を渡ると、開港時の松ヶ枝税関の跡地になる。

 桟橋から南山手の方向に目をやれば、3階建ての石造建築がある。

 旧香港上海銀行長崎支店である。

 その建物の前に、松ヶ枝町から小曽根町の「炭坑舎」まで続く大浦海岸通りがあった。

 路肩には石積みの護岸があって、昭和20年頃までは団平船が舳先を並べて舫われていた。

 その海面も埋め立てられ埠頭になっている。

 目を対岸に転ずれば、三菱造船所のガントリークレーンがある。

 戦艦武蔵を建造している頃は、目隠しのロープを縄のれんのようにつるしていた。

 

◎軍艦島と白寿丸

 戦後半年が経った頃、戦時中のアメリカのニュース映画を見ていたら、

 アメリカの潜水艦の潜望鏡が、見覚えのあるガントリークレーンを映し出した。

 「潜望鏡」「潜水艦」「長崎港内」まさか?と思った。

 180度回転した潜望鏡に黄色い洋館の「炭鉱社」を見たとき、

 長崎港内に潜水艦が侵入したことを理解した。驚いた。

 潜望鏡を上げたまま悠然と港外に出る潜水艦。

 香焼、深堀付近を過ぎると高島、端島が見えた。

 端島に差し掛かったとき、石炭を満載した船を見つけて魚雷を発射した。

 潜望鏡で魚雷の航跡を追い、船の砲座で慌てた様子の水兵の姿をとらえていた。

 (その時は潜水艦と石炭運搬船の名前を知らなかったが、

 後で潜水艦は「ティランテ」、石炭運搬船は「白寿丸」と知った。)

 そのとき(昭和20年6月11日)、端島小学校(白寿丸から約70メートル)では、

 私たち小学3年生が体操の準備をして校庭にいた。

 突然に海水が天気雨のように降り、次に爆発音がして教室の窓ガラスが割れ、破片が降ってきた。

 何事が起ったのかわからず、とりあえず教室に逃げ込んだ。

 魚雷の破片は80メートルほども飛び、風呂場の屋根を突き破っていた。

 白寿丸は沈没し、海底に座礁した。

 白寿丸が搭載していた砲は船内から引き上げられ30号棟の屋上に据え付けられた。

 その後、砲弾は実戦に役立つことはなかった。

 丸腰の水兵さん5~6人も終戦で除隊するまで砲を守るために端島に残った。

 

◎戦前までの繫華街

 30号棟の1階は商店街。

 ニコニコ食堂、大石履物店、落水時計店、浜松呉服店、他の商店がならんでいた。

 ニコニコ食堂は、私の叔父と叔母が経営しており、

 端島で唯一の食堂で30号棟の一階半分の面積を占めていた。

 1階と2階の部屋には従業員が住み、叔父家族は2階の3部屋を一つにした広い部屋に住んでいて、

 商店街の会合や仲間内の宴会などでも使っていた。

 同じ商店街の浜松さんは、その後、長崎市内に転居する際に家を紹介してもらったりして

 暫くの間ご近所付き合いがあった。

 また、大石さんとは、学校の恩師の家に遊びに行った時に恩師宅の隣に住んでいて偶然にも再会した。

 ニコニコ食堂の前の石段を下ると、岸壁を背にして木造建築があり、

 海野酒店、森理髪店、美容室、鐘ヶ江商店、中山質店、豆腐屋、消防小屋があり

 昭和館前の小さな広場に続いていた。

 階段を下りて右側の崖下には、風呂場、木造建築二階三階建ての遊郭が並んでいた。

 朝鮮半島から来た人が経営する吉田屋、日本人相手の森本屋と本田屋、少し間を開けて郵便局があった。

 その先に会社の購買部売店があった。
 
 「購買」には衣料品・雑貨・食料品・酒・煙草などが置いてあった。

 配給の酒を買った記憶がある。自宅前の階段で転んで瓶を割った。

 目玉を食らったのも忘れていない。

 また「購買」に、子供がハエやネズミを捕らえて持っていくと点数券をくれた。

 駄菓子や文房具などと交換してくれた。

 ニコニコ食堂には板場さんも二人いた。

 会社の寮である菊池寮に宿泊客や会社の酒宴がある時はニコニコ食堂から会席膳を運んでいた。

 夕暮れ時には酒場になり、ニコニコ食堂で女給さんを相手に一杯飲んだあと、

 遊郭に流れていく人もいて、夜は、島で一番賑やかな場所だった。

 本田屋の「コキン」さんは、ニコニコ食堂の手伝いに来て、客の取り持ちをし、客引きをしていた。

 本田屋の遊郭の取り締まりをしていたが、朝鮮半島出身で、若い頃は遊女をしていたと母親から聞いた。

 吉田屋の表では、天気の良い日は遊女と思われる17、8歳の若い女性が、

 チマチョゴリの裾をひらひらと翻しながらシーソーに似た遊具で無邪気に遊んでいた。

 木製の移動式で木の両端にそれぞれ立って

 一人が地面を蹴り上げるともう一人が反対側で跳ね上がるという日本では見たことがない遊具だった。

 遊んだ後は、その遊具を店の中に入れていたようだった。

 

◎映画「緑なき島」の撮影

 昭和23年夏ごろ映画の撮影があった。

 その当時に人気俳優の佐分利信、佐野周二、桑野道子、幾野みち代、山村聰らのロケ班は

 菊池寮(のちの清風荘)に宿泊した。

 昭和館前のロケは黒山の人だかり、海水で雨を降らす。

 雨の中のラブシーンを一目見ようと濡れて待つ人々は、傘でキスシーンが隠れ落胆の声を上げていた。

 映画は端島で封切られた。

 しかし現在は原板もプリントも見つからないらしい。

 映画は、若者の恋を描いてはいるが、組合結成を主題にしていたからだろうか。

 

◎第3見学広場から(軍艦島上陸クルーズに参加した際の見学場所)

 第3見学広場は南部運動場の北側の部分になり、木造長屋2棟があった。

 その先が戦前までの繁華街である。

 戦争末期の数か月、長屋は中国人捕虜の収容所になった。

 収容所の出口には木柵が設置されたが、歩哨所はなく警備の兵士は居なかった。

 勤労課外勤係が当直をしていた。もともと端島には現役の軍人はいなかった。

 昭和20年7月頃、勤労課外勤係のMさんが、夜中、中国人捕虜にスコップで頭を殴られ死亡した。

 Mさんは、日本人労働者に対しても厳しい管理をする人だった。

 中国人は、長崎市内の警察署に引き渡されたと後で聞いた。

 8月15日以後は、中国人達は、自由に外出もした。

 叔母さんが満州語を話せたので、30号棟の5階まで登ってくる人もいた。

 手土産にマントウをくれた。黒い芋団子しか知らないので、軟らかく膨れた白いマントウが美味かった。

 交換に何を渡したか知らないが、買い物を頼まれていたのかもしれない。

 

◎昭和館裏の朝鮮半島出身者所帯の長屋

 木造長屋3~4棟。同級生に朝鮮半島出身者は、2人いた。

 その一人の中村ヨンゴ(母親がヨンゴーと呼んでいた)が、その長屋に住んでいた。

 もう一人は、岩本勉(いわもとつとむ)と日本名を名乗っており、

 父親は朝鮮半島出身者で独身寮寮長住宅に住んでいた。

 長屋には老人もいた。

 暑い夏の日は日陰のバンコに座り、籐製の筒を腕や身体に付けて、

 その上に絽の上衣を羽織ってつば広の帽子を被り、長い煙管で煙草をふかしていた。

 朝鮮半島出身者の葬式の列には「泣き女」がいた。

 葬式の見送りに桟橋まで大きな声を張り上げて泣き叫んでいる女性達が船を見送ると

 何事もなかったようにピタッと泣き止んだ。

 満州暮らしをしたことがある叔母さんに何故ウソ泣きするのかと聞いたら、理由を教えてくれた。

 (満州にもたくさんの朝鮮半島出身者がいた)

 学校に行き帰りには、家の前で夫婦喧嘩をやっているのに出くわしたことがある。

 朝鮮語で罵り合っていたら隣人たちが出て来て、双方の言い分を聞いていた。

 私は野次馬で見ていたが、追い払われたので後のことは分からない。

 

◎30号棟の5階の「李三」さん

 表札に「李三」と書いていたので下の名前を聞いてみた。

 上の名前が「李」で下の名前が「三」。日本人が呼び捨てにするから「さん」を付けたよと言った。

 煮炊きをする大鍋で煮沸消毒をして「僕の家にはノミもシラミもいない」「日本人は汚い」と自慢していた。

 原爆の数日後に長崎から身内を戸板に載せて連れて来た。

 アロエを貰い集めて自宅で看病していた。

 終戦の日から数日後朝鮮半島に帰ったことを人伝てに聞いた。

 通名のことは後年知ったが、

 「李三」さんと同様に通名で日本人所帯と同じ棟に一緒に暮らしていた人もいたようだ。

 また、在日朝鮮人・在日韓国人として日本で暮らし半島に帰らない人もいた。

 

◎メガネの船着き場

 16号棟の近くになるので「向地」(野母・高浜)の野菜船がここに着けられた。

 夜陰に紛れて「尻(けつ)わり」する独身寮の寮生も丸太を抱えて此処から暗闇の海に出た。

 潮流に押し流されて救助を求める叫び声を上げていた。

 暗闇の海の波間で助けを求める人を探すためにサーチライトがメガネの岸壁の上に設置された。

 米軍機の空襲も多くなり、灯火管制が行われていた時期でもあり、常時使われたことはない。

 常時岸壁の上を照らすこともなかった。

 生命の危険を冒して岸壁の上から海に飛び込む愚か者、暗闇の岸壁に登る愚か者はいなかった。

 時化が続いて向地から汲み取りの船が来ないときは糞尿を海に投棄していた。

 

◎潮降り町

 端島には町名地番はない、島の北西部にある木造住宅辺りのこと俗にそう呼んだ。

 海が時化たとき、海水が岸壁を越えて降ってきた。

 昭和16年頃はまだ木造長屋が数棟あった。

 一般鉱員や昇格した技手クラスの鉱員所帯が住んでいた。

 また下請けの清水組・間組・熊谷組などの飯場にも使用されていた。

 私たち親子が住んでいた長屋は第1寮の前で石垣の上にあった。

 開発の初期に岩山の麓に盛土をした造成地だったろうか?

 現在の配置図では65号棟と児童公園の辺りになる。

 石垣の縁を歩いて第1寮の前の道路に落ちたり、階段でこけたりしたものだ。

 開戦を告げる軍艦マーチを聞いたのも此処だ。

 闇夜に「尻わり」が助けを求める声を聞いたのも此処だった。

 

◎空襲と防空壕

 B29やグラマンが端島の周辺を通過するようになると、空襲警報が発令された。

 全島民が避難できるように島の岩山をくりぬいて防空壕が掘られた。

 十文字に掘り抜き4箇所の出入り口が造られた。

 照明灯があったかどうかは記憶がさだかではない。

 その後はどうなっているのか。

 本土空襲の帰途に爆弾を落とした、機銃掃射もしたが被害は無かった。

 爆弾は海に落ちた。爆弾の爆発の影響で大きな魚が護岸を越えて島に上がった。

 美味しそうな魚を喜んで拾ってきた人がいた。

 五島灘の上空でのグラマンと友軍機の空中戦も見た。

 端島を標的にした攻撃はなかったと思う。

 

◎渡り廊下のことを「桟橋」とよんだ。

 とくに「日給」棟の桟橋は、日中は子供の遊び場になり、夏の夕方には夕涼みの場になった。

 茣蓙を敷き布団を持ち出して寝る人もいた。

 

◎夕顔丸と「吊り桟橋」を連絡した艀は「サンパン」と呼んでいたが、中国や東南アジアの「三板」に由来する呼び方だと思う。

 船頭さんの手助けで「サンパン」から「桟橋」の梯子を上り下りしたことは、

 皆さん忘れずに記憶しているだろう。

 ちなみに夕顔丸は、三菱重工長崎造船所の鉄船1番船で姿の良い船だった。

 本村船長が操船を指示する「面舵一杯」「ようそろお」の声を操舵室の横で聴くのが好きだった。

 蒸気機関の律動的な音も心地よかった。

 

 

矢持 邦穂(やもち くにほ)

昭和11年4月23日 端島30号棟4階で生まれた

 

父親  矢持 兼蔵  久留米市出身 姉 マツヨを頼って端島へ

母親 (新地)フユノ 長崎県西彼杵郡石村出身(現 長崎市為石町)

           独身時代には島で選炭婦をした。

           端島に叔母などの親戚数家族が住んでいた。

叔父 井西 信一   明治30年 大阪府北河内南郷村生まれ

           大正時代 端島に渡り、端島で大納屋を経営し、
     
           大納屋廃止後はニコニコ食堂を経営した。

叔母 井西 マツヨ  明治36年 福岡県久留米市生まれ

           昭和3年9月信一と端島で結婚し、
  
           昭和13年に夫が亡くなるとニコニコ食堂の経営者となった。


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