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    李 貴南(岩本 千代) 「端島の思い出(生まれてから終戦まで)」

    李 貴南(岩本 千代) 「端島の思い出(生まれてから終戦まで)」

    李 貴南(岩本 千代) 「端島の思い出(生まれてから終戦まで)」

2022/01/17

李 貴南(岩本 千代) 「端島の思い出(生まれてから終戦まで)」

李 貴南(岩本 千代) 「端島の思い出(生まれてから終戦まで)」

李 貴南(岩本 千代) 「端島の思い出(生まれてから終戦まで)」

李 貴南(岩本 千代) 「端島の思い出(生まれてから終戦まで)」

端島の思い出(生まれてから終戦まで) 李 貴南(岩本 千代)(93歳)                 

 

私は、1928年(昭和3年)7月7日端島で生まれた。

 

父は、朝鮮人で、実家は、釜山の近く、梁山の統道寺(とうどうさ)という由緒あるお寺だが、

寺は継がず、端島炭鉱で働いていた身内を頼って端島に来たという。

父が、いつ日本に来たかは不明だが、鹿児島出身の日本人女性と結婚し、

2人の兄が生まれ、その後、端島に渡り、鉱夫として働いている時に私が生まれたのだと思う。

母は、私を産んで間もなく産後の肥立ちが悪くて他界し、

父は、朝鮮から新しい母を迎えて、私のあとに弟1人、妹3人が生まれた。

7人の兄弟の中で、兄2人と自分の3人が、母親が違うということはずっと後になって知ったことである。

私が物心ついたときは、もう新しいお母さんだった訳で、実母のようにして暮らしていた。

母は優しく、7人兄弟は仲が良かった。

 

私に記憶があるのは、当時、従兄弟(父の兄の息子、父にとっては甥にあたる)が、

朝鮮人労働者の寮の寮長をして裕福な暮らしをしていたことだ。

従兄弟宅では、祖父母(父の両親)と従兄弟の妻、子供達が暮らしていた。

祖父はひげを長くのばしていた。

祖母はほっそりした優しい佇まいの人で、93歳まで生きた。

他にも、叔父(父の弟)家族がいた。親戚の中で、私は初めての女の子だったので、

祖父母や叔父たちに可愛がられた。

私たち家族は、10階建ての2階に住んでいた。(日給社宅)

風呂場は同じアパートの地下1階にあり、家族で入りに行ったが、

湯船の湯は海水を温めたもので塩辛く、まさに海水浴場だった。上がり湯だけ真水を使っていた。

海の水は、身体や皮膚病に良く、私が今も元気なのはそのせいかもしれないと思う。

自分達家族、親戚以外の朝鮮人では、たまちゃんという友達がいた。

たまちゃんもまた朝鮮人寮長の娘で、私より1つか2つ年下だった。

 

端島は、三菱の島で、日常の買い物は、会社が運営する「購買」という売店で買い物をしていた。

購買は、今でいうマーケットみたいな感じで、食料品や衣類など何でも揃っていた。

購買に行くと、まず、券を買って、その券を渡して商品と交換する。

父に頼まれてお酒を買いに行くときは、ビールの空き瓶を持参し、2合か3合位、量った酒を入れてもらう。

19銭位で、残った1銭位がお駄賃で、飴玉などを買うのが楽しみだった。

 

幼稚園も三菱が運営していて、胸当てに三菱の刺繍のついた白いエプロンを着ていた記憶がある。

端島小学校の山口先生と中村先生は、活水女学校出身の先生で、紋付きの着物と袴姿で、皆の憧れだった。

男の人は戦争に行くので、女学校出たての若い女先生が多かったのかなと思う。

川副先生は、端島病院の院長先生の娘だった。岡本先生はお裁縫の先生で、いつも着物を着ていた。

江越先生や川越先生という男の先生もいた。

 

遠足は、船で長崎市内に行った。船を降りたら波止場で中国人がマントウ(まんじゅう)を売っていた。

お寺の参道でお弁当を食べた。参道には物もらい(乞食)がいっぱいいた。

田舎のあぜ道を歩いたが、景色が珍しかった。

端島は田んぼが無いから、目の前にあるのが稲で、米になるものと初めて知った。

他には、従兄弟が、長崎市内に家を持っていて、家族で度々遊びに行った事を覚えている。

 

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まったのは、9歳(小3)の時だった。

その年、南京崩落のときは、旗行列があって、みんな日の丸を振って賑やかだった。

戦争が激しくなるなか、端島は石炭増産で活気があった。

私はまだ子供で、軍部や国や大人の言う事を何も疑うこともなくて、

全てはお国の為と信じる軍国少女だった。


 

父が亡くなったのは、13歳の時だった。

父は、肝硬変で、自宅療養中だった。その日、端島で大相撲の春巡業があり、

連勝中で大人気の双葉山が来たので、私は、下の妹を背負い、相撲を観に行った。

そして、家に戻ると父が亡くなっていた。

父が亡くなって急に暮らしに困ったということはなかった。

父は長患いしていて、母が飯場で働いて私達を養ってくれていた。

 

1941年(昭和16年)、私は、端島高等小学校を卒業後、

長崎市内にある活水女学校に入学するが、戦時下で殆ど授業はなかった。

アメリカ人宣教師が創立したミッションスクールだったので、

尚更、軍部に目を付けられていたのではないかと思うが、授業どころではなく、

皆、挺身隊で工場に行ったりしていた。

私は、その頃は、お国のためにと従軍看護婦に憧れていたので、活水女学校に席を置いたまま、

端島で、午前中は端島病院で見習い看護婦をし、午後は、看護婦になる為の勉強をした。

見習い看護婦の仕事は、まず、診察の順番にカルテを確認して患者さんの名前を読み上げる事だった。

他には、包帯を洗濯し巻きなおして揃えたり、宿直勤務もあった。

受験して正式に看護婦になった後も、そのまま端島病院で働いていた。

坑内事故は頻繁にあって、足や腕の切断が多かった。

外科の手術室の風呂場に行くと、バケツの中に足や腕が一本入っていて、

それを取りに行けと言われるのが、怖くて行くのが嫌だった。

切断された足や腕は集めて焼き場に持って行った。

中国人捕虜が、多く働かされていて、環境や栄養が悪いせいで、痩せこけていて、皮膚病が多かった。

薬もないので、赤チンやヨードチンキを塗ったり、ちょっと腫れたところは、

ワセリンをガーゼに塗って貼るぐらいが治療だった。

 

二人の兄は東京に出ていたが(上の兄は早大生、頭の良かった下の兄は端島から推薦で東大生だった)

端島に戻っていた。上の兄は学校を出たあと、端島炭鉱に勤めて、電気関係の仕事をしており、

下の兄も、もう学業は終えていたのか、戦時中で空襲が激しくなったりで学業どころではなかったのか、

島に戻り、上の兄と同じように、炭鉱の電気関係の仕事をしていた。

そして、二人とも地元の青年団に入って、防衛というか、「敵機来襲」とかいう自衛団みたいな活動をしていた。

東京は食料事情が悪かったのか、2人とも痩せて帰って来た。

戦時中であっても端島では、食糧難とは無縁で空腹を感じたことはなかった。

 

1945年8月9日、原爆投下のときの事はよく覚えている。

私は端島病院にいた。

昼前、同僚と、「そろそろお昼になるね」と話していたら、空襲警報発令、敵機来襲の放送があり、

長崎の町の方が明るくなった。きのこ雲も見えた。

長崎の街は夜になっても一晩中赤々と燃えていたが、その時は、焼夷弾で燃えていると思っていた。

その後、端島の病院にも、長崎から、やけどして、ただれて、

皮膚がべろっと剝がれて垂れ下がっている患者が搬送されてきた。

長崎の病院が原爆で無くなって、患者さんが溢れて、行くところがなかったから、

端島とか高島の病院に来たんだと思う。

治療といっても薬があるわけでもなく、火傷は赤チンキかヨードチンキ塗って、

ガーゼにワセリンを塗ってかぶせて包帯を巻くだけ。そして、みんな死んでいった。

一見どこも悪くないような患者が翌日、麻痺がきて、全身狂ったようになって死んでいったりもした。

その時は「原爆」とも知らなかった。爆弾にあたった、焼夷弾で燃えているんだと言う事だけで。

頭が良くて級長をしていた長崎の県立高女に進学した端島の同級生の実家を、

仲の良かった友人と訪ねたら、お母さんから同級生が亡くなったと聞いた。

その時は原爆って知らなかった。空襲で亡くなったと聞いた。

 

戦争が終わって、その年かその翌年に朝鮮の人たちはみんな引き揚げていった。

戦争に負けた、戦争が終わったといっても当時のことはあんまり覚えていないし、

そんなに大した感情もなかった。

端島が私にとっての生まれ故郷で、17歳まで育った島だけど、大人はみんな、帰る、帰るといって

、笑って帰るから、親たちが引き揚げるというから、子供だからついていくしかない。

私もみんなと一緒に笑って帰ったんじゃないかな。

朝鮮がどこで、釜山がどこなのかもわからないし、

「朝鮮にもお月様あるの?」なんて兄に聞いてバカにされたことを覚えている。

私達家族もみな、朝鮮に帰国した。

 

端島での暮らし、日々の出来事。

家族との日々の生活や友人達と一緒に遊び、学んだ事が、なつかしく思い出される。

世界遺産となった端島での暮らしは、戦時下にありながら、

炭鉱がもたらしてくれた豊かな生活があった。

当時は豊かな生活であったということも自覚しないまま、世の中のことも何も知らず、

何の苦労も感じず、それを当たり前のこととして受け入れて暮らしていた。

今、90年の人生をふりかえってみると、改めて、端島で暮らしていた時が、

かけがえのない貴重な日々であったと実感する。





李 貴南(岩本 千代)



コラム用

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端島の思い出(生まれてから終戦まで) 李 貴南(岩本 千代)(93歳)                 

 

私は、1928年(昭和3年)7月7日端島で生まれた。

 

父は、朝鮮人で、実家は、釜山の近く、梁山の統道寺(とうどうさ)という由緒あるお寺だが、

寺は継がず、端島炭鉱で働いていた身内を頼って端島に来たという。

父が、いつ日本に来たかは不明だが、鹿児島出身の日本人女性と結婚し、

2人の兄が生まれ、その後、端島に渡り、鉱夫として働いている時に私が生まれたのだと思う。

母は、私を産んで間もなく産後の肥立ちが悪くて他界し、

父は、朝鮮から新しい母を迎えて、私のあとに弟1人、妹3人が生まれた。

7人の兄弟の中で、兄2人と自分の3人が、母親が違うということはずっと後になって知ったことである。

私が物心ついたときは、もう新しいお母さんだった訳で、実母のようにして暮らしていた。

母は優しく、7人兄弟は仲が良かった。

 

私に記憶があるのは、当時、従兄弟(父の兄の息子、父にとっては甥にあたる)が、

朝鮮人労働者の寮の寮長をして裕福な暮らしをしていたことだ。

従兄弟宅では、祖父母(父の両親)と従兄弟の妻、子供達が暮らしていた。

祖父はひげを長くのばしていた。

祖母はほっそりした優しい佇まいの人で、93歳まで生きた。

他にも、叔父(父の弟)家族がいた。親戚の中で、私は初めての女の子だったので、

祖父母や叔父たちに可愛がられた。

私たち家族は、10階建ての2階に住んでいた。(日給社宅)

風呂場は同じアパートの地下1階にあり、家族で入りに行ったが、

湯船の湯は海水を温めたもので塩辛く、まさに海水浴場だった。上がり湯だけ真水を使っていた。

海の水は、身体や皮膚病に良く、私が今も元気なのはそのせいかもしれないと思う。

自分達家族、親戚以外の朝鮮人では、たまちゃんという友達がいた。

たまちゃんもまた朝鮮人寮長の娘で、私より1つか2つ年下だった。

 

端島は、三菱の島で、日常の買い物は、会社が運営する「購買」という売店で買い物をしていた。

購買は、今でいうマーケットみたいな感じで、食料品や衣類など何でも揃っていた。

購買に行くと、まず、券を買って、その券を渡して商品と交換する。

父に頼まれてお酒を買いに行くときは、ビールの空き瓶を持参し、2合か3合位、量った酒を入れてもらう。

19銭位で、残った1銭位がお駄賃で、飴玉などを買うのが楽しみだった。

 

幼稚園も三菱が運営していて、胸当てに三菱の刺繍のついた白いエプロンを着ていた記憶がある。

端島小学校の山口先生と中村先生は、活水女学校出身の先生で、紋付きの着物と袴姿で、皆の憧れだった。

男の人は戦争に行くので、女学校出たての若い女先生が多かったのかなと思う。

川副先生は、端島病院の院長先生の娘だった。岡本先生はお裁縫の先生で、いつも着物を着ていた。

江越先生や川越先生という男の先生もいた。

 

遠足は、船で長崎市内に行った。船を降りたら波止場で中国人がマントウ(まんじゅう)を売っていた。

お寺の参道でお弁当を食べた。参道には物もらい(乞食)がいっぱいいた。

田舎のあぜ道を歩いたが、景色が珍しかった。

端島は田んぼが無いから、目の前にあるのが稲で、米になるものと初めて知った。

他には、従兄弟が、長崎市内に家を持っていて、家族で度々遊びに行った事を覚えている。

 

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まったのは、9歳(小3)の時だった。

その年、南京崩落のときは、旗行列があって、みんな日の丸を振って賑やかだった。

戦争が激しくなるなか、端島は石炭増産で活気があった。

私はまだ子供で、軍部や国や大人の言う事を何も疑うこともなくて、

全てはお国の為と信じる軍国少女だった。


 

父が亡くなったのは、13歳の時だった。

父は、肝硬変で、自宅療養中だった。その日、端島で大相撲の春巡業があり、

連勝中で大人気の双葉山が来たので、私は、下の妹を背負い、相撲を観に行った。

そして、家に戻ると父が亡くなっていた。

父が亡くなって急に暮らしに困ったということはなかった。

父は長患いしていて、母が飯場で働いて私達を養ってくれていた。

 

1941年(昭和16年)、私は、端島高等小学校を卒業後、

長崎市内にある活水女学校に入学するが、戦時下で殆ど授業はなかった。

アメリカ人宣教師が創立したミッションスクールだったので、

尚更、軍部に目を付けられていたのではないかと思うが、授業どころではなく、

皆、挺身隊で工場に行ったりしていた。

私は、その頃は、お国のためにと従軍看護婦に憧れていたので、活水女学校に席を置いたまま、

端島で、午前中は端島病院で見習い看護婦をし、午後は、看護婦になる為の勉強をした。

見習い看護婦の仕事は、まず、診察の順番にカルテを確認して患者さんの名前を読み上げる事だった。

他には、包帯を洗濯し巻きなおして揃えたり、宿直勤務もあった。

受験して正式に看護婦になった後も、そのまま端島病院で働いていた。

坑内事故は頻繁にあって、足や腕の切断が多かった。

外科の手術室の風呂場に行くと、バケツの中に足や腕が一本入っていて、

それを取りに行けと言われるのが、怖くて行くのが嫌だった。

切断された足や腕は集めて焼き場に持って行った。

中国人捕虜が、多く働かされていて、環境や栄養が悪いせいで、痩せこけていて、皮膚病が多かった。

薬もないので、赤チンやヨードチンキを塗ったり、ちょっと腫れたところは、

ワセリンをガーゼに塗って貼るぐらいが治療だった。

 

二人の兄は東京に出ていたが(上の兄は早大生、頭の良かった下の兄は端島から推薦で東大生だった)

端島に戻っていた。上の兄は学校を出たあと、端島炭鉱に勤めて、電気関係の仕事をしており、

下の兄も、もう学業は終えていたのか、戦時中で空襲が激しくなったりで学業どころではなかったのか、

島に戻り、上の兄と同じように、炭鉱の電気関係の仕事をしていた。

そして、二人とも地元の青年団に入って、防衛というか、「敵機来襲」とかいう自衛団みたいな活動をしていた。

東京は食料事情が悪かったのか、2人とも痩せて帰って来た。

戦時中であっても端島では、食糧難とは無縁で空腹を感じたことはなかった。

 

1945年8月9日、原爆投下のときの事はよく覚えている。

私は端島病院にいた。

昼前、同僚と、「そろそろお昼になるね」と話していたら、空襲警報発令、敵機来襲の放送があり、

長崎の町の方が明るくなった。きのこ雲も見えた。

長崎の街は夜になっても一晩中赤々と燃えていたが、その時は、焼夷弾で燃えていると思っていた。

その後、端島の病院にも、長崎から、やけどして、ただれて、

皮膚がべろっと剝がれて垂れ下がっている患者が搬送されてきた。

長崎の病院が原爆で無くなって、患者さんが溢れて、行くところがなかったから、

端島とか高島の病院に来たんだと思う。

治療といっても薬があるわけでもなく、火傷は赤チンキかヨードチンキ塗って、

ガーゼにワセリンを塗ってかぶせて包帯を巻くだけ。そして、みんな死んでいった。

一見どこも悪くないような患者が翌日、麻痺がきて、全身狂ったようになって死んでいったりもした。

その時は「原爆」とも知らなかった。爆弾にあたった、焼夷弾で燃えているんだと言う事だけで。

頭が良くて級長をしていた長崎の県立高女に進学した端島の同級生の実家を、

仲の良かった友人と訪ねたら、お母さんから同級生が亡くなったと聞いた。

その時は原爆って知らなかった。空襲で亡くなったと聞いた。

 

戦争が終わって、その年かその翌年に朝鮮の人たちはみんな引き揚げていった。

戦争に負けた、戦争が終わったといっても当時のことはあんまり覚えていないし、

そんなに大した感情もなかった。

端島が私にとっての生まれ故郷で、17歳まで育った島だけど、大人はみんな、帰る、帰るといって

、笑って帰るから、親たちが引き揚げるというから、子供だからついていくしかない。

私もみんなと一緒に笑って帰ったんじゃないかな。

朝鮮がどこで、釜山がどこなのかもわからないし、

「朝鮮にもお月様あるの?」なんて兄に聞いてバカにされたことを覚えている。

私達家族もみな、朝鮮に帰国した。

 

端島での暮らし、日々の出来事。

家族との日々の生活や友人達と一緒に遊び、学んだ事が、なつかしく思い出される。

世界遺産となった端島での暮らしは、戦時下にありながら、

炭鉱がもたらしてくれた豊かな生活があった。

当時は豊かな生活であったということも自覚しないまま、世の中のことも何も知らず、

何の苦労も感じず、それを当たり前のこととして受け入れて暮らしていた。

今、90年の人生をふりかえってみると、改めて、端島で暮らしていた時が、

かけがえのない貴重な日々であったと実感する。





李 貴南(岩本 千代)



コラム用

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端島の思い出(生まれてから終戦まで) 李 貴南(岩本 千代)(93歳)                 

 

私は、1928年(昭和3年)7月7日端島で生まれた。

 

父は、朝鮮人で、実家は、釜山の近く、梁山の統道寺(とうどうさ)という由緒あるお寺だが、

寺は継がず、端島炭鉱で働いていた身内を頼って端島に来たという。

父が、いつ日本に来たかは不明だが、鹿児島出身の日本人女性と結婚し、

2人の兄が生まれ、その後、端島に渡り、鉱夫として働いている時に私が生まれたのだと思う。

母は、私を産んで間もなく産後の肥立ちが悪くて他界し、

父は、朝鮮から新しい母を迎えて、私のあとに弟1人、妹3人が生まれた。

7人の兄弟の中で、兄2人と自分の3人が、母親が違うということはずっと後になって知ったことである。

私が物心ついたときは、もう新しいお母さんだった訳で、実母のようにして暮らしていた。

母は優しく、7人兄弟は仲が良かった。

 

私に記憶があるのは、当時、従兄弟(父の兄の息子、父にとっては甥にあたる)が、

朝鮮人労働者の寮の寮長をして裕福な暮らしをしていたことだ。

従兄弟宅では、祖父母(父の両親)と従兄弟の妻、子供達が暮らしていた。

祖父はひげを長くのばしていた。

祖母はほっそりした優しい佇まいの人で、93歳まで生きた。

他にも、叔父(父の弟)家族がいた。親戚の中で、私は初めての女の子だったので、

祖父母や叔父たちに可愛がられた。

私たち家族は、10階建ての2階に住んでいた。(日給社宅)

風呂場は同じアパートの地下1階にあり、家族で入りに行ったが、

湯船の湯は海水を温めたもので塩辛く、まさに海水浴場だった。上がり湯だけ真水を使っていた。

海の水は、身体や皮膚病に良く、私が今も元気なのはそのせいかもしれないと思う。

自分達家族、親戚以外の朝鮮人では、たまちゃんという友達がいた。

たまちゃんもまた朝鮮人寮長の娘で、私より1つか2つ年下だった。

 

端島は、三菱の島で、日常の買い物は、会社が運営する「購買」という売店で買い物をしていた。

購買は、今でいうマーケットみたいな感じで、食料品や衣類など何でも揃っていた。

購買に行くと、まず、券を買って、その券を渡して商品と交換する。

父に頼まれてお酒を買いに行くときは、ビールの空き瓶を持参し、2合か3合位、量った酒を入れてもらう。

19銭位で、残った1銭位がお駄賃で、飴玉などを買うのが楽しみだった。

 

幼稚園も三菱が運営していて、胸当てに三菱の刺繍のついた白いエプロンを着ていた記憶がある。

端島小学校の山口先生と中村先生は、活水女学校出身の先生で、紋付きの着物と袴姿で、皆の憧れだった。

男の人は戦争に行くので、女学校出たての若い女先生が多かったのかなと思う。

川副先生は、端島病院の院長先生の娘だった。岡本先生はお裁縫の先生で、いつも着物を着ていた。

江越先生や川越先生という男の先生もいた。

 

遠足は、船で長崎市内に行った。船を降りたら波止場で中国人がマントウ(まんじゅう)を売っていた。

お寺の参道でお弁当を食べた。参道には物もらい(乞食)がいっぱいいた。

田舎のあぜ道を歩いたが、景色が珍しかった。

端島は田んぼが無いから、目の前にあるのが稲で、米になるものと初めて知った。

他には、従兄弟が、長崎市内に家を持っていて、家族で度々遊びに行った事を覚えている。

 

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まったのは、9歳(小3)の時だった。

その年、南京崩落のときは、旗行列があって、みんな日の丸を振って賑やかだった。

戦争が激しくなるなか、端島は石炭増産で活気があった。

私はまだ子供で、軍部や国や大人の言う事を何も疑うこともなくて、

全てはお国の為と信じる軍国少女だった。


 

父が亡くなったのは、13歳の時だった。

父は、肝硬変で、自宅療養中だった。その日、端島で大相撲の春巡業があり、

連勝中で大人気の双葉山が来たので、私は、下の妹を背負い、相撲を観に行った。

そして、家に戻ると父が亡くなっていた。

父が亡くなって急に暮らしに困ったということはなかった。

父は長患いしていて、母が飯場で働いて私達を養ってくれていた。

 

1941年(昭和16年)、私は、端島高等小学校を卒業後、

長崎市内にある活水女学校に入学するが、戦時下で殆ど授業はなかった。

アメリカ人宣教師が創立したミッションスクールだったので、

尚更、軍部に目を付けられていたのではないかと思うが、授業どころではなく、

皆、挺身隊で工場に行ったりしていた。

私は、その頃は、お国のためにと従軍看護婦に憧れていたので、活水女学校に席を置いたまま、

端島で、午前中は端島病院で見習い看護婦をし、午後は、看護婦になる為の勉強をした。

見習い看護婦の仕事は、まず、診察の順番にカルテを確認して患者さんの名前を読み上げる事だった。

他には、包帯を洗濯し巻きなおして揃えたり、宿直勤務もあった。

受験して正式に看護婦になった後も、そのまま端島病院で働いていた。

坑内事故は頻繁にあって、足や腕の切断が多かった。

外科の手術室の風呂場に行くと、バケツの中に足や腕が一本入っていて、

それを取りに行けと言われるのが、怖くて行くのが嫌だった。

切断された足や腕は集めて焼き場に持って行った。

中国人捕虜が、多く働かされていて、環境や栄養が悪いせいで、痩せこけていて、皮膚病が多かった。

薬もないので、赤チンやヨードチンキを塗ったり、ちょっと腫れたところは、

ワセリンをガーゼに塗って貼るぐらいが治療だった。

 

二人の兄は東京に出ていたが(上の兄は早大生、頭の良かった下の兄は端島から推薦で東大生だった)

端島に戻っていた。上の兄は学校を出たあと、端島炭鉱に勤めて、電気関係の仕事をしており、

下の兄も、もう学業は終えていたのか、戦時中で空襲が激しくなったりで学業どころではなかったのか、

島に戻り、上の兄と同じように、炭鉱の電気関係の仕事をしていた。

そして、二人とも地元の青年団に入って、防衛というか、「敵機来襲」とかいう自衛団みたいな活動をしていた。

東京は食料事情が悪かったのか、2人とも痩せて帰って来た。

戦時中であっても端島では、食糧難とは無縁で空腹を感じたことはなかった。

 

1945年8月9日、原爆投下のときの事はよく覚えている。

私は端島病院にいた。

昼前、同僚と、「そろそろお昼になるね」と話していたら、空襲警報発令、敵機来襲の放送があり、

長崎の町の方が明るくなった。きのこ雲も見えた。

長崎の街は夜になっても一晩中赤々と燃えていたが、その時は、焼夷弾で燃えていると思っていた。

その後、端島の病院にも、長崎から、やけどして、ただれて、

皮膚がべろっと剝がれて垂れ下がっている患者が搬送されてきた。

長崎の病院が原爆で無くなって、患者さんが溢れて、行くところがなかったから、

端島とか高島の病院に来たんだと思う。

治療といっても薬があるわけでもなく、火傷は赤チンキかヨードチンキ塗って、

ガーゼにワセリンを塗ってかぶせて包帯を巻くだけ。そして、みんな死んでいった。

一見どこも悪くないような患者が翌日、麻痺がきて、全身狂ったようになって死んでいったりもした。

その時は「原爆」とも知らなかった。爆弾にあたった、焼夷弾で燃えているんだと言う事だけで。

頭が良くて級長をしていた長崎の県立高女に進学した端島の同級生の実家を、

仲の良かった友人と訪ねたら、お母さんから同級生が亡くなったと聞いた。

その時は原爆って知らなかった。空襲で亡くなったと聞いた。

 

戦争が終わって、その年かその翌年に朝鮮の人たちはみんな引き揚げていった。

戦争に負けた、戦争が終わったといっても当時のことはあんまり覚えていないし、

そんなに大した感情もなかった。

端島が私にとっての生まれ故郷で、17歳まで育った島だけど、大人はみんな、帰る、帰るといって

、笑って帰るから、親たちが引き揚げるというから、子供だからついていくしかない。

私もみんなと一緒に笑って帰ったんじゃないかな。

朝鮮がどこで、釜山がどこなのかもわからないし、

「朝鮮にもお月様あるの?」なんて兄に聞いてバカにされたことを覚えている。

私達家族もみな、朝鮮に帰国した。

 

端島での暮らし、日々の出来事。

家族との日々の生活や友人達と一緒に遊び、学んだ事が、なつかしく思い出される。

世界遺産となった端島での暮らしは、戦時下にありながら、

炭鉱がもたらしてくれた豊かな生活があった。

当時は豊かな生活であったということも自覚しないまま、世の中のことも何も知らず、

何の苦労も感じず、それを当たり前のこととして受け入れて暮らしていた。

今、90年の人生をふりかえってみると、改めて、端島で暮らしていた時が、

かけがえのない貴重な日々であったと実感する。





李 貴南(岩本 千代)



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端島の思い出(生まれてから終戦まで) 李 貴南(岩本 千代)(93歳)                 

 

私は、1928年(昭和3年)7月7日端島で生まれた。

 

父は、朝鮮人で、実家は、釜山の近く、梁山の統道寺(とうどうさ)という由緒あるお寺だが、

寺は継がず、端島炭鉱で働いていた身内を頼って端島に来たという。

父が、いつ日本に来たかは不明だが、鹿児島出身の日本人女性と結婚し、

2人の兄が生まれ、その後、端島に渡り、鉱夫として働いている時に私が生まれたのだと思う。

母は、私を産んで間もなく産後の肥立ちが悪くて他界し、

父は、朝鮮から新しい母を迎えて、私のあとに弟1人、妹3人が生まれた。

7人の兄弟の中で、兄2人と自分の3人が、母親が違うということはずっと後になって知ったことである。

私が物心ついたときは、もう新しいお母さんだった訳で、実母のようにして暮らしていた。

母は優しく、7人兄弟は仲が良かった。

 

私に記憶があるのは、当時、従兄弟(父の兄の息子、父にとっては甥にあたる)が、

朝鮮人労働者の寮の寮長をして裕福な暮らしをしていたことだ。

従兄弟宅では、祖父母(父の両親)と従兄弟の妻、子供達が暮らしていた。

祖父はひげを長くのばしていた。

祖母はほっそりした優しい佇まいの人で、93歳まで生きた。

他にも、叔父(父の弟)家族がいた。親戚の中で、私は初めての女の子だったので、

祖父母や叔父たちに可愛がられた。

私たち家族は、10階建ての2階に住んでいた。(日給社宅)

風呂場は同じアパートの地下1階にあり、家族で入りに行ったが、

湯船の湯は海水を温めたもので塩辛く、まさに海水浴場だった。上がり湯だけ真水を使っていた。

海の水は、身体や皮膚病に良く、私が今も元気なのはそのせいかもしれないと思う。

自分達家族、親戚以外の朝鮮人では、たまちゃんという友達がいた。

たまちゃんもまた朝鮮人寮長の娘で、私より1つか2つ年下だった。

 

端島は、三菱の島で、日常の買い物は、会社が運営する「購買」という売店で買い物をしていた。

購買は、今でいうマーケットみたいな感じで、食料品や衣類など何でも揃っていた。

購買に行くと、まず、券を買って、その券を渡して商品と交換する。

父に頼まれてお酒を買いに行くときは、ビールの空き瓶を持参し、2合か3合位、量った酒を入れてもらう。

19銭位で、残った1銭位がお駄賃で、飴玉などを買うのが楽しみだった。

 

幼稚園も三菱が運営していて、胸当てに三菱の刺繍のついた白いエプロンを着ていた記憶がある。

端島小学校の山口先生と中村先生は、活水女学校出身の先生で、紋付きの着物と袴姿で、皆の憧れだった。

男の人は戦争に行くので、女学校出たての若い女先生が多かったのかなと思う。

川副先生は、端島病院の院長先生の娘だった。岡本先生はお裁縫の先生で、いつも着物を着ていた。

江越先生や川越先生という男の先生もいた。

 

遠足は、船で長崎市内に行った。船を降りたら波止場で中国人がマントウ(まんじゅう)を売っていた。

お寺の参道でお弁当を食べた。参道には物もらい(乞食)がいっぱいいた。

田舎のあぜ道を歩いたが、景色が珍しかった。

端島は田んぼが無いから、目の前にあるのが稲で、米になるものと初めて知った。

他には、従兄弟が、長崎市内に家を持っていて、家族で度々遊びに行った事を覚えている。

 

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まったのは、9歳(小3)の時だった。

その年、南京崩落のときは、旗行列があって、みんな日の丸を振って賑やかだった。

戦争が激しくなるなか、端島は石炭増産で活気があった。

私はまだ子供で、軍部や国や大人の言う事を何も疑うこともなくて、

全てはお国の為と信じる軍国少女だった。


 

父が亡くなったのは、13歳の時だった。

父は、肝硬変で、自宅療養中だった。その日、端島で大相撲の春巡業があり、

連勝中で大人気の双葉山が来たので、私は、下の妹を背負い、相撲を観に行った。

そして、家に戻ると父が亡くなっていた。

父が亡くなって急に暮らしに困ったということはなかった。

父は長患いしていて、母が飯場で働いて私達を養ってくれていた。

 

1941年(昭和16年)、私は、端島高等小学校を卒業後、

長崎市内にある活水女学校に入学するが、戦時下で殆ど授業はなかった。

アメリカ人宣教師が創立したミッションスクールだったので、

尚更、軍部に目を付けられていたのではないかと思うが、授業どころではなく、

皆、挺身隊で工場に行ったりしていた。

私は、その頃は、お国のためにと従軍看護婦に憧れていたので、活水女学校に席を置いたまま、

端島で、午前中は端島病院で見習い看護婦をし、午後は、看護婦になる為の勉強をした。

見習い看護婦の仕事は、まず、診察の順番にカルテを確認して患者さんの名前を読み上げる事だった。

他には、包帯を洗濯し巻きなおして揃えたり、宿直勤務もあった。

受験して正式に看護婦になった後も、そのまま端島病院で働いていた。

坑内事故は頻繁にあって、足や腕の切断が多かった。

外科の手術室の風呂場に行くと、バケツの中に足や腕が一本入っていて、

それを取りに行けと言われるのが、怖くて行くのが嫌だった。

切断された足や腕は集めて焼き場に持って行った。

中国人捕虜が、多く働かされていて、環境や栄養が悪いせいで、痩せこけていて、皮膚病が多かった。

薬もないので、赤チンやヨードチンキを塗ったり、ちょっと腫れたところは、

ワセリンをガーゼに塗って貼るぐらいが治療だった。

 

二人の兄は東京に出ていたが(上の兄は早大生、頭の良かった下の兄は端島から推薦で東大生だった)

端島に戻っていた。上の兄は学校を出たあと、端島炭鉱に勤めて、電気関係の仕事をしており、

下の兄も、もう学業は終えていたのか、戦時中で空襲が激しくなったりで学業どころではなかったのか、

島に戻り、上の兄と同じように、炭鉱の電気関係の仕事をしていた。

そして、二人とも地元の青年団に入って、防衛というか、「敵機来襲」とかいう自衛団みたいな活動をしていた。

東京は食料事情が悪かったのか、2人とも痩せて帰って来た。

戦時中であっても端島では、食糧難とは無縁で空腹を感じたことはなかった。

 

1945年8月9日、原爆投下のときの事はよく覚えている。

私は端島病院にいた。

昼前、同僚と、「そろそろお昼になるね」と話していたら、空襲警報発令、敵機来襲の放送があり、

長崎の町の方が明るくなった。きのこ雲も見えた。

長崎の街は夜になっても一晩中赤々と燃えていたが、その時は、焼夷弾で燃えていると思っていた。

その後、端島の病院にも、長崎から、やけどして、ただれて、

皮膚がべろっと剝がれて垂れ下がっている患者が搬送されてきた。

長崎の病院が原爆で無くなって、患者さんが溢れて、行くところがなかったから、

端島とか高島の病院に来たんだと思う。

治療といっても薬があるわけでもなく、火傷は赤チンキかヨードチンキ塗って、

ガーゼにワセリンを塗ってかぶせて包帯を巻くだけ。そして、みんな死んでいった。

一見どこも悪くないような患者が翌日、麻痺がきて、全身狂ったようになって死んでいったりもした。

その時は「原爆」とも知らなかった。爆弾にあたった、焼夷弾で燃えているんだと言う事だけで。

頭が良くて級長をしていた長崎の県立高女に進学した端島の同級生の実家を、

仲の良かった友人と訪ねたら、お母さんから同級生が亡くなったと聞いた。

その時は原爆って知らなかった。空襲で亡くなったと聞いた。

 

戦争が終わって、その年かその翌年に朝鮮の人たちはみんな引き揚げていった。

戦争に負けた、戦争が終わったといっても当時のことはあんまり覚えていないし、

そんなに大した感情もなかった。

端島が私にとっての生まれ故郷で、17歳まで育った島だけど、大人はみんな、帰る、帰るといって

、笑って帰るから、親たちが引き揚げるというから、子供だからついていくしかない。

私もみんなと一緒に笑って帰ったんじゃないかな。

朝鮮がどこで、釜山がどこなのかもわからないし、

「朝鮮にもお月様あるの?」なんて兄に聞いてバカにされたことを覚えている。

私達家族もみな、朝鮮に帰国した。

 

端島での暮らし、日々の出来事。

家族との日々の生活や友人達と一緒に遊び、学んだ事が、なつかしく思い出される。

世界遺産となった端島での暮らしは、戦時下にありながら、

炭鉱がもたらしてくれた豊かな生活があった。

当時は豊かな生活であったということも自覚しないまま、世の中のことも何も知らず、

何の苦労も感じず、それを当たり前のこととして受け入れて暮らしていた。

今、90年の人生をふりかえってみると、改めて、端島で暮らしていた時が、

かけがえのない貴重な日々であったと実感する。





李 貴南(岩本 千代)



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