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    田中 實夫「随筆 私の端島」

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2023/04/04

田中 實夫「随筆 私の端島」

田中 實夫「随筆 私の端島」

田中 實夫「随筆 私の端島」

田中 實夫「随筆 私の端島」

私が崎戸鉱業所から高島鉱業所へ転勤で赴任しましたのは昭和32年10月、

翌日が世界で初めての海底水道通水式が高島小学校のグラウンドで行はれると云う日でした。



高島鉱業所では二子工作課配属となり端島工作課に変わるまでの8年半の間に、

主として新選炭設備・綜合ボイラー(タクマ式水管ボイラー)の新設、

ドイツの採炭機械であるホーベル(レッベ・ウンバウ・ライスハーケンの各種)の導入、

フライアッシュ流送充填方式の導入、坑内冷房の実施等々坑内外の最先端技術の実現に関わる事ができました。



ただ心に残るものとして、

一つは端島の深部八片からの自然発火に当たり作業応援の為高島から駆け付けたのですが、

最終的に深部放棄が決定され、自分がやったことと云えば二坑底ポンプ座のポンプ方をやったくらいで、

寂しい思いをしながら帰ったと云う事があります。

あと一つは、フライアッシュ貯蔵設備の中のスクレーパーコンベヤーの補修作業中に重傷者が出た為、

責任者として業務上過失傷害罪で起訴され、長崎簡易裁判及び同地方裁判所を経て、

最終的に福岡高裁で無罪とはなったものの負の記憶として残っていることです。



個人的には高島着任約4か月後、

昭和33年2月に当時の有田工作課長(後に副所長)に呼ばれてご自宅に伺うと「今日は見合いだ」と云うことになり、

そのまま話しが進んで同年の4月27日に長崎の伊勢の宮で結婚式の運びとなりました。

今年(令和5年)で65年になりますがスターサファイヤ婚と云うそうです。



昭和41年4月端島工作課に転勤となりました。今度は家族4人の移動となりました。

社宅は中央社宅(14号)の北側最上階に入居。

最も気候の良い時でしたので風通しは気持ちいいし夕日は蕩けるように水平線に沈んでいくしで、

これは別荘に来たようだと言っていたのですが、冬と夏の厳しさは相当なものでした。



端島工作課では坑内工作主任を命じられ、立坑から坑内全般の設備を担当する事となりました。

採掘区域は前年から三ツ瀬区域に移っており、払条件も急傾斜から緩傾斜に変わりましたので、

払内にH型コンベヤーを敷設し、切羽掘削にはドラムカッターを投入すると云う最新の採炭設備となりました。

三ツ瀬区域への水平基幹坑道は−340mのレベルにあり、

それより浅い所を採掘するには採掘跡を充填する必要があり、空気充填方式を導入しました。

三ツ瀬の基幹坑道横に掘進硬の受入れ用チップラーから、

1次・2次のクラッシングプラントを設置すると云う、

しっかりした設備となり浅部採掘に大いに貢献することができたと思っております。

この後、戦後最高の月間35200トンの出炭記録が達成されました。



端島の石炭は100%が原料炭なので、石油との価格競争は関係ありません。

又、輸入原料炭との競争にも負けることもなく最後まで黒字操業を続けました。

従って昭和49年の閉山も外部要因によるものではなく、採掘可能な石炭を全て掘り尽くしての閉山となり、

従業員全員の同意を得て済々とした閉山が行われました。

この事は端島関係者が全員が誇りとすべき歴史的事実だと思っております。



私自身は昭和44年12月に、約3年8か月の端島勤務を終え本店技術部へ転勤となり、

昭和52年10月には再度の高島勤務を命じられ、

昭和59年6月高島鉱業副所長を最後に石炭部門の勤務を終わりました。

トータル45年の会社生活の中で端島勤務は期間的には短いものではありましたが、

30歳代前半の最も元気の良い時に全力を尽くして頑張ったと云う思いがあり、

諸々の想い出の中で何時までも大きなウエイトを占めております。

一山家族であった端島関係者の皆様の弥栄を心より祈念申し上げます。




以上



田中様
(田中氏後ろ中央)

田中氏
(田中氏後列中央)




田中 實夫(たなか じつお)
熊本県熊本市中央区生まれ
昭和9年  (1934年) 9月3日生
昭和28年(1953年) 3月  熊本県立済々黌高等学校          18歳
昭和32年(1957年) 3月  国立熊本大学工学部機械工学科卒業     22歳
昭和32年(1957年) 4月  三菱鉱業(現三菱マテリアル)(株)入社  22歳
           同日付 崎戸鉱業所配属(実習)
昭和32年(1957年)10月   同社高島鉱業所二子工作課勤務       23歳
昭和41年(1966年)  4月   同社高島鉱業所端島工作課勤務       31歳
昭和44年(1969年)12月 同社本店技術部機械課勤務           35歳
昭和46年(1971年 ) 4月 同社本店技術部 技師長付           37歳
昭和52年(1977年)  9月 三菱石炭鉱業(株)高砿業所 施設課長            43歳
昭和53年(1978年)  8月 同社高島砿業所副所長             43歳
昭和59年(1984年)  5月 三菱鉱業セメント(株)中央研究所 所長付      49歳
同  年               10月 同社ニューセラミックス工場 副工場長       50歳
昭和61年(1986年)  6月 同工場 工場長                    51歳
平成 元年 (1989年)    7月 ケーシーケー(株)へ出向 常務取締役        54歳
平成3年 (1991年)   6月 三菱マテリアル(株) 退職               56歳
                 ケーシーケー(株) 代表取締役専務取締役
平成6年(1994年)  10月 ケーシーケー(株) 退職
                                      西部建設(株) 専務取締役             60歳
平成7年(1995年)  6月 同社 取締役副社長                60歳
平成9年(1997年)  6月 同社 代表取締役社長               62歳
平成11年(1999年)  6月 同社 取締役相談役                64歳
平成13年(2001年)  6月 同社 退職                    66歳







私が崎戸鉱業所から高島鉱業所へ転勤で赴任しましたのは昭和32年10月、

翌日が世界で初めての海底水道通水式が高島小学校のグラウンドで行はれると云う日でした。



高島鉱業所では二子工作課配属となり端島工作課に変わるまでの8年半の間に、

主として新選炭設備・綜合ボイラー(タクマ式水管ボイラー)の新設、

ドイツの採炭機械であるホーベル(レッベ・ウンバウ・ライスハーケンの各種)の導入、

フライアッシュ流送充填方式の導入、坑内冷房の実施等々坑内外の最先端技術の実現に関わる事ができました。



ただ心に残るものとして、

一つは端島の深部八片からの自然発火に当たり作業応援の為高島から駆け付けたのですが、

最終的に深部放棄が決定され、自分がやったことと云えば二坑底ポンプ座のポンプ方をやったくらいで、

寂しい思いをしながら帰ったと云う事があります。

あと一つは、フライアッシュ貯蔵設備の中のスクレーパーコンベヤーの補修作業中に重傷者が出た為、

責任者として業務上過失傷害罪で起訴され、長崎簡易裁判及び同地方裁判所を経て、

最終的に福岡高裁で無罪とはなったものの負の記憶として残っていることです。



個人的には高島着任約4か月後、

昭和33年2月に当時の有田工作課長(後に副所長)に呼ばれてご自宅に伺うと「今日は見合いだ」と云うことになり、

そのまま話しが進んで同年の4月27日に長崎の伊勢の宮で結婚式の運びとなりました。

今年(令和5年)で65年になりますがスターサファイヤ婚と云うそうです。



昭和41年4月端島工作課に転勤となりました。今度は家族4人の移動となりました。

社宅は中央社宅(14号)の北側最上階に入居。

最も気候の良い時でしたので風通しは気持ちいいし夕日は蕩けるように水平線に沈んでいくしで、

これは別荘に来たようだと言っていたのですが、冬と夏の厳しさは相当なものでした。



端島工作課では坑内工作主任を命じられ、立坑から坑内全般の設備を担当する事となりました。

採掘区域は前年から三ツ瀬区域に移っており、払条件も急傾斜から緩傾斜に変わりましたので、

払内にH型コンベヤーを敷設し、切羽掘削にはドラムカッターを投入すると云う最新の採炭設備となりました。

三ツ瀬区域への水平基幹坑道は−340mのレベルにあり、

それより浅い所を採掘するには採掘跡を充填する必要があり、空気充填方式を導入しました。

三ツ瀬の基幹坑道横に掘進硬の受入れ用チップラーから、

1次・2次のクラッシングプラントを設置すると云う、

しっかりした設備となり浅部採掘に大いに貢献することができたと思っております。

この後、戦後最高の月間35200トンの出炭記録が達成されました。



端島の石炭は100%が原料炭なので、石油との価格競争は関係ありません。

又、輸入原料炭との競争にも負けることもなく最後まで黒字操業を続けました。

従って昭和49年の閉山も外部要因によるものではなく、採掘可能な石炭を全て掘り尽くしての閉山となり、

従業員全員の同意を得て済々とした閉山が行われました。

この事は端島関係者が全員が誇りとすべき歴史的事実だと思っております。



私自身は昭和44年12月に、約3年8か月の端島勤務を終え本店技術部へ転勤となり、

昭和52年10月には再度の高島勤務を命じられ、

昭和59年6月高島鉱業副所長を最後に石炭部門の勤務を終わりました。

トータル45年の会社生活の中で端島勤務は期間的には短いものではありましたが、

30歳代前半の最も元気の良い時に全力を尽くして頑張ったと云う思いがあり、

諸々の想い出の中で何時までも大きなウエイトを占めております。

一山家族であった端島関係者の皆様の弥栄を心より祈念申し上げます。




以上



田中様
(田中氏後ろ中央)

田中氏
(田中氏後列中央)




田中 實夫(たなか じつお)
熊本県熊本市中央区生まれ
昭和9年  (1934年) 9月3日生
昭和28年(1953年) 3月  熊本県立済々黌高等学校          18歳
昭和32年(1957年) 3月  国立熊本大学工学部機械工学科卒業     22歳
昭和32年(1957年) 4月  三菱鉱業(現三菱マテリアル)(株)入社  22歳
           同日付 崎戸鉱業所配属(実習)
昭和32年(1957年)10月   同社高島鉱業所二子工作課勤務       23歳
昭和41年(1966年)  4月   同社高島鉱業所端島工作課勤務       31歳
昭和44年(1969年)12月 同社本店技術部機械課勤務           35歳
昭和46年(1971年 ) 4月 同社本店技術部 技師長付           37歳
昭和52年(1977年)  9月 三菱石炭鉱業(株)高砿業所 施設課長            43歳
昭和53年(1978年)  8月 同社高島砿業所副所長             43歳
昭和59年(1984年)  5月 三菱鉱業セメント(株)中央研究所 所長付      49歳
同  年               10月 同社ニューセラミックス工場 副工場長       50歳
昭和61年(1986年)  6月 同工場 工場長                    51歳
平成 元年 (1989年)    7月 ケーシーケー(株)へ出向 常務取締役        54歳
平成3年 (1991年)   6月 三菱マテリアル(株) 退職               56歳
                 ケーシーケー(株) 代表取締役専務取締役
平成6年(1994年)  10月 ケーシーケー(株) 退職
                                      西部建設(株) 専務取締役             60歳
平成7年(1995年)  6月 同社 取締役副社長                60歳
平成9年(1997年)  6月 同社 代表取締役社長               62歳
平成11年(1999年)  6月 同社 取締役相談役                64歳
平成13年(2001年)  6月 同社 退職                    66歳







私が崎戸鉱業所から高島鉱業所へ転勤で赴任しましたのは昭和32年10月、

翌日が世界で初めての海底水道通水式が高島小学校のグラウンドで行はれると云う日でした。



高島鉱業所では二子工作課配属となり端島工作課に変わるまでの8年半の間に、

主として新選炭設備・綜合ボイラー(タクマ式水管ボイラー)の新設、

ドイツの採炭機械であるホーベル(レッベ・ウンバウ・ライスハーケンの各種)の導入、

フライアッシュ流送充填方式の導入、坑内冷房の実施等々坑内外の最先端技術の実現に関わる事ができました。



ただ心に残るものとして、

一つは端島の深部八片からの自然発火に当たり作業応援の為高島から駆け付けたのですが、

最終的に深部放棄が決定され、自分がやったことと云えば二坑底ポンプ座のポンプ方をやったくらいで、

寂しい思いをしながら帰ったと云う事があります。

あと一つは、フライアッシュ貯蔵設備の中のスクレーパーコンベヤーの補修作業中に重傷者が出た為、

責任者として業務上過失傷害罪で起訴され、長崎簡易裁判及び同地方裁判所を経て、

最終的に福岡高裁で無罪とはなったものの負の記憶として残っていることです。



個人的には高島着任約4か月後、

昭和33年2月に当時の有田工作課長(後に副所長)に呼ばれてご自宅に伺うと「今日は見合いだ」と云うことになり、

そのまま話しが進んで同年の4月27日に長崎の伊勢の宮で結婚式の運びとなりました。

今年(令和5年)で65年になりますがスターサファイヤ婚と云うそうです。



昭和41年4月端島工作課に転勤となりました。今度は家族4人の移動となりました。

社宅は中央社宅(14号)の北側最上階に入居。

最も気候の良い時でしたので風通しは気持ちいいし夕日は蕩けるように水平線に沈んでいくしで、

これは別荘に来たようだと言っていたのですが、冬と夏の厳しさは相当なものでした。



端島工作課では坑内工作主任を命じられ、立坑から坑内全般の設備を担当する事となりました。

採掘区域は前年から三ツ瀬区域に移っており、払条件も急傾斜から緩傾斜に変わりましたので、

払内にH型コンベヤーを敷設し、切羽掘削にはドラムカッターを投入すると云う最新の採炭設備となりました。

三ツ瀬区域への水平基幹坑道は−340mのレベルにあり、

それより浅い所を採掘するには採掘跡を充填する必要があり、空気充填方式を導入しました。

三ツ瀬の基幹坑道横に掘進硬の受入れ用チップラーから、

1次・2次のクラッシングプラントを設置すると云う、

しっかりした設備となり浅部採掘に大いに貢献することができたと思っております。

この後、戦後最高の月間35200トンの出炭記録が達成されました。



端島の石炭は100%が原料炭なので、石油との価格競争は関係ありません。

又、輸入原料炭との競争にも負けることもなく最後まで黒字操業を続けました。

従って昭和49年の閉山も外部要因によるものではなく、採掘可能な石炭を全て掘り尽くしての閉山となり、

従業員全員の同意を得て済々とした閉山が行われました。

この事は端島関係者が全員が誇りとすべき歴史的事実だと思っております。



私自身は昭和44年12月に、約3年8か月の端島勤務を終え本店技術部へ転勤となり、

昭和52年10月には再度の高島勤務を命じられ、

昭和59年6月高島鉱業副所長を最後に石炭部門の勤務を終わりました。

トータル45年の会社生活の中で端島勤務は期間的には短いものではありましたが、

30歳代前半の最も元気の良い時に全力を尽くして頑張ったと云う思いがあり、

諸々の想い出の中で何時までも大きなウエイトを占めております。

一山家族であった端島関係者の皆様の弥栄を心より祈念申し上げます。




以上



田中様
(田中氏後ろ中央)

田中氏
(田中氏後列中央)




田中 實夫(たなか じつお)
熊本県熊本市中央区生まれ
昭和9年  (1934年) 9月3日生
昭和28年(1953年) 3月  熊本県立済々黌高等学校          18歳
昭和32年(1957年) 3月  国立熊本大学工学部機械工学科卒業     22歳
昭和32年(1957年) 4月  三菱鉱業(現三菱マテリアル)(株)入社  22歳
           同日付 崎戸鉱業所配属(実習)
昭和32年(1957年)10月   同社高島鉱業所二子工作課勤務       23歳
昭和41年(1966年)  4月   同社高島鉱業所端島工作課勤務       31歳
昭和44年(1969年)12月 同社本店技術部機械課勤務           35歳
昭和46年(1971年 ) 4月 同社本店技術部 技師長付           37歳
昭和52年(1977年)  9月 三菱石炭鉱業(株)高砿業所 施設課長            43歳
昭和53年(1978年)  8月 同社高島砿業所副所長             43歳
昭和59年(1984年)  5月 三菱鉱業セメント(株)中央研究所 所長付      49歳
同  年               10月 同社ニューセラミックス工場 副工場長       50歳
昭和61年(1986年)  6月 同工場 工場長                    51歳
平成 元年 (1989年)    7月 ケーシーケー(株)へ出向 常務取締役        54歳
平成3年 (1991年)   6月 三菱マテリアル(株) 退職               56歳
                 ケーシーケー(株) 代表取締役専務取締役
平成6年(1994年)  10月 ケーシーケー(株) 退職
                                      西部建設(株) 専務取締役             60歳
平成7年(1995年)  6月 同社 取締役副社長                60歳
平成9年(1997年)  6月 同社 代表取締役社長               62歳
平成11年(1999年)  6月 同社 取締役相談役                64歳
平成13年(2001年)  6月 同社 退職                    66歳







私が崎戸鉱業所から高島鉱業所へ転勤で赴任しましたのは昭和32年10月、

翌日が世界で初めての海底水道通水式が高島小学校のグラウンドで行はれると云う日でした。



高島鉱業所では二子工作課配属となり端島工作課に変わるまでの8年半の間に、

主として新選炭設備・綜合ボイラー(タクマ式水管ボイラー)の新設、

ドイツの採炭機械であるホーベル(レッベ・ウンバウ・ライスハーケンの各種)の導入、

フライアッシュ流送充填方式の導入、坑内冷房の実施等々坑内外の最先端技術の実現に関わる事ができました。



ただ心に残るものとして、

一つは端島の深部八片からの自然発火に当たり作業応援の為高島から駆け付けたのですが、

最終的に深部放棄が決定され、自分がやったことと云えば二坑底ポンプ座のポンプ方をやったくらいで、

寂しい思いをしながら帰ったと云う事があります。

あと一つは、フライアッシュ貯蔵設備の中のスクレーパーコンベヤーの補修作業中に重傷者が出た為、

責任者として業務上過失傷害罪で起訴され、長崎簡易裁判及び同地方裁判所を経て、

最終的に福岡高裁で無罪とはなったものの負の記憶として残っていることです。



個人的には高島着任約4か月後、

昭和33年2月に当時の有田工作課長(後に副所長)に呼ばれてご自宅に伺うと「今日は見合いだ」と云うことになり、

そのまま話しが進んで同年の4月27日に長崎の伊勢の宮で結婚式の運びとなりました。

今年(令和5年)で65年になりますがスターサファイヤ婚と云うそうです。



昭和41年4月端島工作課に転勤となりました。今度は家族4人の移動となりました。

社宅は中央社宅(14号)の北側最上階に入居。

最も気候の良い時でしたので風通しは気持ちいいし夕日は蕩けるように水平線に沈んでいくしで、

これは別荘に来たようだと言っていたのですが、冬と夏の厳しさは相当なものでした。



端島工作課では坑内工作主任を命じられ、立坑から坑内全般の設備を担当する事となりました。

採掘区域は前年から三ツ瀬区域に移っており、払条件も急傾斜から緩傾斜に変わりましたので、

払内にH型コンベヤーを敷設し、切羽掘削にはドラムカッターを投入すると云う最新の採炭設備となりました。

三ツ瀬区域への水平基幹坑道は−340mのレベルにあり、

それより浅い所を採掘するには採掘跡を充填する必要があり、空気充填方式を導入しました。

三ツ瀬の基幹坑道横に掘進硬の受入れ用チップラーから、

1次・2次のクラッシングプラントを設置すると云う、

しっかりした設備となり浅部採掘に大いに貢献することができたと思っております。

この後、戦後最高の月間35200トンの出炭記録が達成されました。



端島の石炭は100%が原料炭なので、石油との価格競争は関係ありません。

又、輸入原料炭との競争にも負けることもなく最後まで黒字操業を続けました。

従って昭和49年の閉山も外部要因によるものではなく、採掘可能な石炭を全て掘り尽くしての閉山となり、

従業員全員の同意を得て済々とした閉山が行われました。

この事は端島関係者が全員が誇りとすべき歴史的事実だと思っております。



私自身は昭和44年12月に、約3年8か月の端島勤務を終え本店技術部へ転勤となり、

昭和52年10月には再度の高島勤務を命じられ、

昭和59年6月高島鉱業副所長を最後に石炭部門の勤務を終わりました。

トータル45年の会社生活の中で端島勤務は期間的には短いものではありましたが、

30歳代前半の最も元気の良い時に全力を尽くして頑張ったと云う思いがあり、

諸々の想い出の中で何時までも大きなウエイトを占めております。

一山家族であった端島関係者の皆様の弥栄を心より祈念申し上げます。




以上



田中様
(田中氏後ろ中央)

田中氏
(田中氏後列中央)




田中 實夫(たなか じつお)
熊本県熊本市中央区生まれ
昭和9年  (1934年) 9月3日生
昭和28年(1953年) 3月  熊本県立済々黌高等学校          18歳
昭和32年(1957年) 3月  国立熊本大学工学部機械工学科卒業     22歳
昭和32年(1957年) 4月  三菱鉱業(現三菱マテリアル)(株)入社  22歳
           同日付 崎戸鉱業所配属(実習)
昭和32年(1957年)10月   同社高島鉱業所二子工作課勤務       23歳
昭和41年(1966年)  4月   同社高島鉱業所端島工作課勤務       31歳
昭和44年(1969年)12月 同社本店技術部機械課勤務           35歳
昭和46年(1971年 ) 4月 同社本店技術部 技師長付           37歳
昭和52年(1977年)  9月 三菱石炭鉱業(株)高砿業所 施設課長            43歳
昭和53年(1978年)  8月 同社高島砿業所副所長             43歳
昭和59年(1984年)  5月 三菱鉱業セメント(株)中央研究所 所長付      49歳
同  年               10月 同社ニューセラミックス工場 副工場長       50歳
昭和61年(1986年)  6月 同工場 工場長                    51歳
平成 元年 (1989年)    7月 ケーシーケー(株)へ出向 常務取締役        54歳
平成3年 (1991年)   6月 三菱マテリアル(株) 退職               56歳
                 ケーシーケー(株) 代表取締役専務取締役
平成6年(1994年)  10月 ケーシーケー(株) 退職
                                      西部建設(株) 専務取締役             60歳
平成7年(1995年)  6月 同社 取締役副社長                60歳
平成9年(1997年)  6月 同社 代表取締役社長               62歳
平成11年(1999年)  6月 同社 取締役相談役                64歳
平成13年(2001年)  6月 同社 退職                    66歳







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